すよ。ねえ」
 彼はこう云って隣りにいる自分の伴侶《つれ》を顧みた。中折《なかおれ》の人は仕方なしに「ああ」と答えた。
 この天眼通《てんがんつう》に苦笑を禁じ得なかった津田は、それぎり会話を切り上げようとしたところ、快豁《かいかつ》な爺さんの方でなかなか彼を放さなかった。
「だが旅行も近頃は便利になりましたね。どこへ行くにも身体《からだ》一つ動かせばたくさんなんですから、ありがたい訳さ。ことにこちとら見たいな気の早いものにはお誂向《あつらえむき》だあね。今度だって荷物なんか何にも持って来やしませんや、この合切袋《がっさいぶくろ》とこの大将のあの鞄《かばん》を差し引くと、残るのは命ばかりといいたいくらいのものだ。ねえ大将」
 大将の名をもって呼ばれた人はまた「ああ」と答えたぎりであった。これだけの手荷物を車室内へ持ち込めないとすれば、彼らのいわゆる「軽便」なるものは、よほど込み合うのか、さもなければ、常識をもって測るべからざる程度において不完全でなければならなかった。そこを確かめて見ようかと思った津田は、すぐ確かめても仕方がないという気を起して黙ってしまった。
 電車を下りた時、津田は
前へ 次へ
全746ページ中657ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング