所《おち》だったのか。馬鹿奴《ばかめ》、そう貴様の思わく通りにさせてたまるものか」
 彼は傷《きずつ》けられた自分のプライドに対しても、この不名誉な幕切《まくぎれ》に一転化を与えた上で、二人と別れなければならないと考えた。けれどもどうしたらこう最後まで押しつめられて来た不利な局面を、今になって、旨《うま》くどさりと引繰《ひっく》り返す事ができるかの問題になると、あらかじめその辺の準備をしておかなかった彼は、全くの無能力者であった。
 外観上の落ちつきを比較的平気そうに保っていた彼の裏側には、役にも立たない機智の作用が、はげしく往来した。けれどもその混雑はただの混雑に終るだけで、何らの帰着点を彼に示してくれないので、むらむらとした後《あと》の彼の心は、いたずらにわくわくするだけであった。そのわくわくがいつの間《ま》にか狼狽《ろうばい》の姿に進化しつつある事さえ、残念ながら彼には意識された。
 この危機一髪という間際に、彼はまた思いがけない現象に逢着《ほうちゃく》した。それは小林の並べた十円紙幣が青年芸術家に及ぼした影響であった。紙幣の上に落された彼の眼から出る異様の光であった。そこには驚
前へ 次へ
全746ページ中643ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング