を呼んだ。
「ちょっと二階にある紙入を取ってくれ。御前の蟇口《がまぐち》でも好い」
「何《なん》になさるの」
お延には夫の意味がまるで解らなかった。
「何でもいいから早く出してくれ」
彼はお延から受取った蟇口を懐中《ふところ》へ放《ほう》り込《こ》んだまま、すぐ大通りの方へ引き返した。そうして電車に乗った。
彼がかなり大きな紙包を抱えてまた戻って来たのは、それから約三四十分|後《ご》で、もう午《ひる》に間もない頃であった。
「あの蟇口の中にゃ少しっきゃ入っていないんだね。もう少しあるのかと思ったら」
津田はそう云いながら腋《わき》に抱えた包みを茶の間の畳の上へ放り出した。
「足りなくって?」
お延は細かい事にまで気を遣《つか》わないではいられないという眼つきを夫の上に向けた。
「いや足りないというほどでもないがね」
「だけど何をお買いになるかあたしちっとも解らないんですもの。もしかすると髪結床《かみいどこ》かと思ったけれども」
津田は二カ月以上手を入れない自分の頭に気がついた。永く髪を刈らないと、心持|番《ばん》の小さい彼の帽子が、被《かぶ》るたんびに少しずつきしんで来るよ
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