《てつびん》が鳴っていた。
「気を許して寝ると、寝坊《ねぼう》をするつもりはなくっても、つい寝過ごすもんだな」
彼は云い訳らしい事をいって、暦《こよみ》の上にかけてある時計を眺めた。時計の針はもう十時近くの所を指《さ》していた。
顔を洗ってまた茶の間へ戻った時、彼は何気なく例の黒塗の膳《ぜん》に向った。その膳は彼の着席を待ち受けたというよりも、むしろ待ち草臥《くたび》れたといった方が適当であった。彼は膳の上に掛けてある布巾《ふきん》を除《と》ろうとしてふと気がついた。
「こりゃいけない」
彼は手術を受ける前日に取るべき注意を、かつて医者から聞かされた事を思い出した。しかし今の彼はそれを明らかに覚えていなかった。彼は突然細君に云った。
「ちょっと訊《き》いてくる」
「今すぐ?」
お延は吃驚《びっくり》して夫の顔を見た。
「なに電話でだよ。訳ゃない」
彼は静かな茶の間の空気を自分で蹴散《けち》らす人のように立ち上ると、すぐ玄関から表へ出た。そうして電車通りを半丁《はんちょう》ほど右へ行った所にある自動電話へ馳《か》けつけた。そこからまた急ぎ足に取って返した彼は玄関に立ったまま細君
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