ぱり昨日の方が愉快だったという気が彼の胸のどこかでした。彼は立ちながら、「お延お延」と呼んだ。すると思いがけない二階の方で「はい」という返事がした。それから階子段《はしごだん》を踏んで降りて来る彼女の足音が聞こえた。同時に下女が勝手の方から馳《か》け出して来た。
「何をしているんだ」
津田の言葉には多少不満の響きがあった。お延は何にも云わなかった。しかしその顔を見上げた時、彼はいつもの通り無言の裡《うち》に自分を牽《ひ》きつけようとする彼女の微笑を認めない訳に行かなかった。白い歯が何より先に彼の視線を奪った。
「二階は真暗じゃないか」
「ええ。何だかぼんやりして考えていたもんだから、つい御帰りに気がつかなかったの」
「寝ていたな」
「まさか」
下女が大きな声を出して笑い出したので、二人の会話はそれぎり切れてしまった。
湯に行く時、お延は「ちょっと待って」と云いながら、石鹸と手拭《てぬぐい》を例の通り彼女の手から受け取って火鉢《ひばち》の傍《そば》を離れようとする夫を引きとめた。彼女は後《うし》ろ向《むき》になって、重《かさ》ね箪笥《だんす》の一番下の抽斗《ひきだし》から、ネルを重
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