えた通りを夫人の前で公然明言する勇気はなかった。勢い彼の態度は煮え切らないものであった。聴くとも聴かないとも云いかねた彼は躊躇《ちゅうちょ》した。
「まあ云って見て下さい」
「まあじゃいけません。あなたがもっと判切《はっきり》しなくっちゃ、私だって云う気にはなれません」
「だけれども――」
「だけれどもでも駄目《だめ》よ。聴きますと男らしく云わなくっちゃ」

        百三十七

 どんな注文が夫人の口から出るか見当《けんとう》のつかない津田は、ひそかに恐れた。受け合った後で撤回しなければならないような窮地に陥《おち》いればそれぎりであった。彼はその場合の夫人を想像してみた。地位から云っても、性質から見ても、また彼に対する特別な関係から判断しても、夫人はけっして彼を赦《ゆる》す人ではなかった。永久夫人の前に赦《ゆる》されない彼は、あたかも蘇生の活手段を奪われた仮死の形骸《けいがい》と一般であった。用心深い彼は生還の望《のぞみ》の確《しか》としない危地に入り込む勇気をもたなかった。
 その上普通の人と違って夫人はどんな難題を持ち出すか解らなかった。自由の利き過ぎる境遇、そこに長く住
前へ 次へ
全746ページ中519ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング