一つあった。その点で彼女が腹の中でいかに彼に対する責任を感じているかは、怜俐《れいり》な津田の見逃《みのが》すところでなかった。何事にも夫人の御意《ぎょい》を主眼に置いて行動する彼といえども、暗《あん》にこの強味だけは恃《たの》みにしていた。しかしそれはいざという万一の場合に保留された彼の利器に過ぎなかった。平生の彼は甘んじて猫の前の鼠となって、先方の思う通りにじゃらされていなければならなかった。この際の夫人もなかなか要点へ来る前に時間を費やした。
「昨日《きのう》秀子さんが来たでしょう。ここへ」
「ええ。参りました」
「延子さんも来たでしょう」
「ええ」
「今日は?」
「今日はまだ参りません」
「今にいらっしゃるんでしょう」
 津田にはどうだか分らなかった。先刻《さっき》来るなという手紙を出した事も、夫人の前では云えなかった。返事を受け取らなかった勝手違も、実は気にかかっていた。
「どうですかしら」
「いらっしゃるか、いらっしゃらないか分らないの」
「ええ、よく分りません。多分来ないだろうとは思うんですが」
「大変冷淡じゃありませんか」
 夫人は嘲《あざ》けるような笑い方をした。

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