と、格子のまだ開《あ》かない先に、障子《しょうじ》の方がすうと開《あ》いた。そうしてお延の姿がいつの間にか彼の前に現われていた。彼は吃驚《びっくり》したように、薄化粧《うすげしょう》を施こした彼女の横顔を眺めた。
 彼は結婚後こんな事でよく自分の細君から驚ろかされた。彼女の行為は時として夫の先《せん》を越すという悪い結果を生む代りに、時としては非常に気の利《き》いた証拠《しょうこ》をも挙《あ》げた。日常|瑣末《さまつ》の事件のうちに、よくこの特色を発揮する彼女の所作《しょさ》を、津田は時々自分の眼先にちらつく洋刀《ナイフ》の光のように眺める事があった。小さいながら冴《さ》えているという感じと共に、どこか気味の悪いという心持も起った。
 咄嗟《とっさ》の場合津田はお延が何かの力で自分の帰りを予感したように思った。けれどもその訳を訊《き》く気にはならなかった。訳を訊いて笑いながらはぐらかされるのは、夫の敗北のように見えた。
 彼は澄まして玄関から上へ上がった。そうしてすぐ着物を着換えた。茶の間の火鉢《ひばち》の前には黒塗の足のついた膳《ぜん》の上に布巾《ふきん》を掛けたのが、彼の帰りを待ち
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