ままにしておいた金の工面《くめん》をどうかしなければならない位地《いち》にあった。彼はすぐまた吉川の細君の事を思い出した。
「先刻《さっき》事情を打ち明けてこっちから云い出しさえすれば訳はなかったのに」
 そう思うと、自分が気を利《き》かしたつもりで、こう早く席を立って来てしまったのが残り惜しくなった。と云って、今さらその用事だけで、また彼女に会いに行く勇気は彼には全くなかった。
 電車を下りて橋を渡る時、彼は暗い欄干《らんかん》の下に蹲踞《うずく》まる乞食《こじき》を見た。その乞食は動く黒い影のように彼の前に頭を下げた。彼は身に薄い外套《がいとう》を着けていた。季節からいうとむしろ早過ぎる瓦斯煖炉《ガスだんろ》の温かい※[#「(諂−言)+炎」、第3水準1−87−64]《ほのお》をもう見て来た。けれども乞食と彼との懸隔《けんかく》は今の彼の眼中にはほとんど入《はい》る余地がなかった。彼は窮した人のように感じた。父が例月の通り金を送ってくれないのが不都合に思われた。

        十四

 津田は同じ気分で自分の宅《うち》の門前まで歩いた。彼が玄関の格子《こうし》へ手を掛けようとする
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