える事ができなかった。
「おれに調戯《からか》うため?」
 それは何とも云えなかった。彼女は元来|他《ひと》に調戯う事の好《すき》な女であった。そうして二人の間柄《あいだがら》はその方面の自由を彼女に与えるに充分であった。その上彼女の地位は知らず知らずの間に今の彼女を放慢にした。彼を焦《じ》らす事から受け得られる単なる快感のために、遠慮の埒《らち》を平気で跨《また》ぐかも知れなかった。
「もしそうでないとしたら、……おれに対する同情のため? おれを贔負《ひいき》にし過ぎるため?」
 それも何とも云えなかった。今までの彼女は実際彼に対して親切でもあり、また贔負にもしてくれた。
 彼は広い通りへ来てそこから電車へ乗った。堀端《ほりばた》を沿うて走るその電車の窓硝子《まどガラス》の外には、黒い水と黒い土手と、それからその土手の上に蟠《わだか》まる黒い松の木が見えるだけであった。
 車内の片隅《かたすみ》に席を取った彼は、窓を透《すか》してこのさむざむしい秋の夜《よ》の景色《けしき》にちょっと眼を注いだ後《あと》、すぐまたほかの事を考えなければならなかった。彼は面倒になって昨夕《ゆうべ》はその
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