》いた。少くともさほど苦《く》にならなかった。耳に入れた刹那《せつな》に起った昂奮《こうふん》の記憶さえ、再び呼び戻す必要を認めなかった。
「もし万一の事があるにしても、自分の方は大丈夫だ」
 夫に対するこういう自信さえ、その時のお延の腹にはできた。したがって、いざという場合に、どうでも臨機の所置をつけて見せるという余裕があった。相手を片づけるぐらいの事なら訳はないという気持も手伝った。
「相手? どんな相手ですか」と訊《き》かれたら、お延は何と答えただろう。それは朧気《おぼろげ》に薄墨《うすずみ》で描かれた相手であった。そうして女であった。そうして津田の愛を自分から奪う人であった。お延はそれ以外に何《なん》にも知らなかった。しかしどこかにこの相手が潜んでいるとは思えた。お秀と自分ら夫婦の間に起った波瀾《はらん》が、ああまで際《きわ》どくならずにすんだなら、お延は行《いき》がかり上《じょう》、是非共津田の腹のなかにいるこの相手を、遠くから探《さぐ》らなければならない順序だったのである。
 お延はそのプログラムを狂わせた自分を顧みて、むしろ幸福だと思った。気がかりを後へ繰り越すのが辛《つ
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