百十二

 久しぶりに夫と直《じか》に向き合ったような気のしたお延は嬉《うれ》しかった。二人の間《あいだ》にいつの間《ま》にかかけられた薄い幕を、急に切って落した時の晴々《はればれ》しい心持になった。
 彼を愛する事によって、是非共自分を愛させなければやまない。――これが彼女の決心であった。その決心は多大の努力を彼女に促《うな》がした。彼女の努力は幸い徒労に終らなかった。彼女はついに酬《むく》いられた。少なくとも今後の見込を立て得るくらいの程度において酬いられた。彼女から見れば不慮の出来事と云わなければならないこの破綻《はたん》は、取《とり》も直《なお》さず彼女にとって復活の曙光《しょこう》であった。彼女は遠い地平線の上に、薔薇色《ばらいろ》の空を、薄明るく眺める事ができた。そうしてその暖かい希望の中に、この破綻から起るすべての不愉快を忘れた。小林の残酷に残して行った正体の解らない黒い一点、それはいまだに彼女の胸の上にあった。お秀の口から迸《ほと》ばしるように出た不審の一句、それも疑惑の星となって、彼女の頭の中に鈍《にぶ》い瞬《まばた》きを見せた。しかしそれらはもう遠い距離に退《しりぞ
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