なかった彼は、驚ろかざるを得ないのみならず、また考えざるを得なかった。それは外套《がいとう》をやるやらないの問題ではなかった。問題は、外套とはまるで縁のない、しかし他《ひと》の外套を、平気でよく知りもしない細君の手からじかに貰い受けに行くような彼の性格であった。もしくは彼の境遇が必然的に生み出した彼の第二の性格であった。もう一歩押して行くと、その性格がお延に向ってどう働らきかけるかが彼の問題であった。そこには突飛《とっぴ》があった。自暴《やけ》があった。満足の人間を常に不満足そうに眺める白い眼があった。新らしく結婚した彼ら二人は、彼の接触し得る満足した人間のうちで、得意な代表者として彼から選択《せんたく》される恐れがあった。平生から彼を軽蔑《けいべつ》する事において、何の容赦も加えなかった津田には、またそういう素地《したじ》を作っておいた自覚が充分あった。
「何をいうか分らない」
 津田の心には突然一種の恐怖が湧《わ》いた。お秀はまた反対に笑い出した。いつまでもその小林という男を何とかかとか批評したがる兄の意味さえ彼女にはほとんど通じなかった。
「何を云ったって、構わないじゃありません
前へ 次へ
全746ページ中359ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング