の見本には、真赤《まっか》に咲いた日比谷公園の躑躅《つつじ》だの、突当りに霞《かすみ》が関《せき》の見える大通りの片側に、薄暗い影をこんもり漂よわせている高い柳などが、離れにくい過去の匂《におい》のように、聯想《れんそう》としてつき纏《まつ》わっていた。お延はそれを開いたまま、しばらくじっと考え込んだ。それから急に思い立ったように机の抽斗をがちゃりと閉めた。
 机の横には同じく直線の多い様式で造られた本箱があった。そこにも抽斗が二つ付いていた。机を棄《す》てたお延は、すぐ本箱の方に向った。しかしそれを開けようとして、手を環《かん》にかけた時、抽斗は双方とも何の抵抗もなく、するすると抜け出したので、お延は中を調べない先に、まず失望した。手応《てごた》えのない所に、新らしい発見のあるはずはなかった。彼女は書き古したノートブックのようなものをいたずらに攪《か》き廻《まわ》した。それを一々読んで見るのは大変であった。読んだところで自分の知ろうと思う事が、そんな筆記の底に潜《ひそ》んでいようとは想像できなかった。彼女は用心深い夫の性質をよく承知していた。錠《じょう》を卸《おろ》さない秘密をそこい
前へ 次へ
全746ページ中321ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング