四

 細君は色の白い女であった。そのせいで形の好い彼女の眉《まゆ》が一際《ひときわ》引立って見えた。彼女はまた癖のようによくその眉を動かした。惜しい事に彼女の眼は細過ぎた。おまけに愛嬌《あいきょう》のない一重瞼《ひとえまぶち》であった。けれどもその一重瞼の中に輝やく瞳子《ひとみ》は漆黒《しっこく》であった。だから非常によく働らいた。或時は専横《せんおう》と云ってもいいくらいに表情を恣《ほしい》ままにした。津田は我知らずこの小《ちい》さい眼から出る光に牽《ひ》きつけられる事があった。そうしてまた突然何の原因もなしにその光から跳《は》ね返される事もないではなかった。
 彼がふと眼を上げて細君を見た時、彼は刹那《せつな》的に彼女の眼に宿る一種の怪しい力を感じた。それは今まで彼女の口にしつつあった甘い言葉とは全く釣り合わない妙な輝やきであった。相手の言葉に対して返事をしようとした彼の心の作用がこの眼つきのためにちょっと遮断《しゃだん》された。すると彼女はすぐ美くしい歯を出して微笑した。同時に眼の表情があとかたもなく消えた。
「嘘《うそ》よ。あたし芝居なんか行かなくってもいいのよ。今のは
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