》の上に載《の》せた紅絹《もみ》の片《きれ》へ軽い火熨斗《ひのし》を当てていた。すると次の間からほどき物を持って出て来たお金《きん》さんという女が津田にお辞儀《じぎ》をしたので、彼はすぐ言葉をかけた。
「お金さん、まだお嫁の口はきまりませんか。まだなら一つ好いところを周旋しましょうか」
 お金さんはえへへと人の好さそうに笑いながら少し顔を赤らめて、彼のために座蒲団《ざぶとん》を縁側《えんがわ》へ持って来《き》ようとした。津田はそれを手で制して、自分から座敷の中に上り込んだ。
「ねえ叔母さん」
「ええ」
 気のなさそうな生返事《なまへんじ》をした叔母は、お金さんが生温《なまぬ》るい番茶を形式的に津田の前へ注《つ》いで出した時、ちょっと首をあげた。
「お金さん由雄《よしお》さんによく頼んでおおきなさいよ。この男は親切で嘘《うそ》を吐《つ》かない人だから」
 お金さんはまだ逃げ出さずにもじもじしていた。津田は何とか云わなければすまなくなった。
「お世辞《せじ》じゃありません、本当の事です」
 叔母は別に取り合う様子もなかった。その時裏で真事の打つ空気銃の音がぽんぽんしたので叔母はすぐ聴耳《ききみみ》を立てた。
「お金さん、ちょっと見て来て下さい。バラ丸《だま》を入れて打つと危険《あぶな》いから」
 叔母は余計なものを買ってくれたと云わんばかりの顔をした。
「大丈夫ですよ。よく云い聞かしてあるんだから」
「いえいけません。きっとあれで面白半分にお隣りの鶏《とり》を打つに違ないから。構わないから丸《たま》だけ取り上げて来て下さい」
 お金さんはそれを好い機《しお》に茶の間から姿をかくした。叔母は黙って火鉢《ひばち》に挿《さ》し込んだ鏝《こて》をまた取り上げた。皺《しわ》だらけな薄い絹が、彼女の膝の上で、綺麗《きれい》に平たく延びて行くのを何気なく眺《なが》めていた津田の耳に、客間の話し声が途切《とぎ》れ途切れに聞こえて来た。
「時に誰です、お客は」
 叔母は驚ろいたようにまた顔を上げた。
「今まで気がつかなかったの。妙ねあなたの耳もずいぶん。ここで聞いてたってよく解るじゃありませんか」

        二十六

 津田は客間にいる声の主を、坐《すわ》ったまま突き留めようと力《つと》めて見た。やがて彼は軽く膝を拍《う》った。
「ああ解った。小林でしょう」
「ええ」
 叔母は嫣然《にこり》ともせずに、簡単な答を落ちついて与えた。
「何だ小林か。新らしい赤靴なんか穿《は》き込んで厭《いや》にお客さんぶってるもんだから誰かと思ったら。そんなら僕も遠慮しずにあっちへ行けばよかった」
 想像の眼で見るにはあまりに陳腐《ちんぷ》過ぎる彼の姿が津田の頭の中に出て来た。この夏会った時の彼の異《い》な服装《なり》もおのずと思い出された。白縮緬《しろちりめん》の襟《えり》のかかった襦袢《じゅばん》の上へ薩摩絣《さつまがすり》を着て、茶の千筋《せんすじ》の袴《はかま》に透綾《すきや》の羽織をはおったその拵《こしら》えは、まるで傘屋《かさや》の主人《あるじ》が町内の葬式の供に立った帰りがけで、強飯《こわめし》の折でも懐《ふところ》に入れているとしか受け取れなかった。その時彼は泥棒に洋服を盗まれたという言訳を津田にした。それから金を七円ほど貸してくれと頼んだ。これはある友達が彼の盗難に同情して、もし自分の質に入れてある夏服を受け出す余裕が彼にあるならば、それを彼にやってもいいと云ったからであった。
 津田は微笑しながら叔母に訊《き》いた。
「あいつまた何だって今日に限って座敷なんかへ通って、堂々とお客ぶりを発揮しているんだろう」
「少し叔父さんに話があるのよ。それがここじゃちょっと云い悪《にく》い事なんでね」
「へえ、小林にもそんな真面目《まじめ》な話があるのかな。金の事か、それでなければ……」
 こう云いかけた津田は、ふと真面目な叔母の顔を見ると共に、後《あと》を引っ込ましてしまった。叔母は少し声を低くした。その声はむしろ彼女の落ちついた調子に釣り合っていた。
「お金《きん》さんの縁談の事もあるんだからね。ここであんまり何かいうと、あの子がきまりを悪くするからね」
 いつもの高調子と違って、茶の間で聞いているとちょっと誰だか分らないくらいな紳士風の声を、小林が出しているのは全くそれがためであった。
「もうきまったんですか」
「まあ旨《うま》く行きそうなのさ」
 叔母の眼には多少の期待が輝やいた。少し乾燥《はしゃ》ぎ気味になった津田はすぐ付け加えた。
「じゃ僕が骨を折って周旋しなくっても、もういいんだな」
 叔母は黙って津田を眺めた。たとい軽薄とまで行かないでも、こういう巫山戯《ふざけ》た空虚《からっぽ》うな彼の態度は、今の叔母の生活気分とまるでかけ離れたものら
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