明暗
夏目漱石
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)探《さぐ》り
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)今|現《げん》に
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「(諂−言)+炎」、第3水準1−87−64]
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一
医者は探《さぐ》りを入れた後《あと》で、手術台の上から津田《つだ》を下《おろ》した。
「やっぱり穴が腸まで続いているんでした。この前《まえ》探《さぐ》った時は、途中に瘢痕《はんこん》の隆起《りゅうき》があったので、ついそこが行《い》きどまりだとばかり思って、ああ云ったんですが、今日《きょう》疎通を好くするために、そいつをがりがり掻《か》き落して見ると、まだ奥があるんです」
「そうしてそれが腸まで続いているんですか」
「そうです。五分ぐらいだと思っていたのが約一寸ほどあるんです」
津田の顔には苦笑の裡《うち》に淡く盛り上げられた失望の色が見えた。医者は白いだぶだぶした上着の前に両手を組み合わせたまま、ちょっと首を傾けた。その様子が「御気の毒ですが事実だから仕方がありません。医者は自分の職業に対して虚言《うそ》を吐《つ》く訳に行かないんですから」という意味に受取れた。
津田は無言のまま帯を締《し》め直して、椅子《いす》の背に投げ掛けられた袴《はかま》を取り上げながらまた医者の方を向いた。
「腸まで続いているとすると、癒《なお》りっこないんですか」
「そんな事はありません」
医者は活溌《かっぱつ》にまた無雑作《むぞうさ》に津田の言葉を否定した。併《あわ》せて彼の気分をも否定するごとくに。
「ただ今《いま》までのように穴の掃除ばかりしていては駄目なんです。それじゃいつまで経《た》っても肉の上《あが》りこはないから、今度は治療法を変えて根本的の手術を一思《ひとおも》いにやるよりほかに仕方がありませんね」
「根本的の治療と云うと」
「切開《せっかい》です。切開して穴と腸といっしょにしてしまうんです。すると天然自然《てんねんしぜん》割《さ》かれた面《めん》の両側が癒着《ゆちゃく》して来ますから、まあ本式に癒るようになるんです」
津田は黙って点頭《うなず》いた。彼の傍《そば》には南側の窓下に据《す》えられた洋卓《テーブル》の上に一台の顕微鏡《けんびきょう》が載っていた。医者と懇意な彼は先刻《さっき》診察所へ這入《はい》った時、物珍らしさに、それを覗《のぞ》かせて貰《もら》ったのである。その時八百五十倍の鏡の底に映ったものは、まるで図に撮影《と》ったように鮮《あざ》やかに見える着色の葡萄状《ぶどうじょう》の細菌であった。
津田は袴を穿《は》いてしまって、その洋卓の上に置いた皮の紙入を取り上げた時、ふとこの細菌の事を思い出した。すると連想が急に彼の胸を不安にした。診察所を出るべく紙入を懐《ふところ》に収めた彼はすでに出ようとしてまた躊躇《ちゅうちょ》した。
「もし結核性のものだとすると、たとい今おっしゃったような根本的な手術をして、細い溝《みぞ》を全部腸の方へ切り開いてしまっても癒らないんでしょう」
「結核性なら駄目です。それからそれへと穴を掘って奥の方へ進んで行くんだから、口元だけ治療したって役にゃ立ちません」
津田は思わず眉《まゆ》を寄せた。
「私《わたし》のは結核性じゃないんですか」
「いえ、結核性じゃありません」
津田は相手の言葉にどれほどの真実さがあるかを確かめようとして、ちょっと眼を医者の上に据《す》えた。医者は動かなかった。
「どうしてそれが分るんですか。ただの診察で分るんですか」
「ええ。診察《み》た様子で分ります」
その時看護婦が津田の後《あと》に廻った患者の名前を室《へや》の出口に立って呼んだ。待ち構えていたその患者はすぐ津田の背後に現われた。津田は早く退却しなければならなくなった。
「じゃいつその根本的手術をやっていただけるでしょう」
「いつでも。あなたの御都合の好い時でようござんす」
津田は自分の都合を善く考えてから日取をきめる事にして室外に出た。
二
電車に乗った時の彼の気分は沈んでいた。身動きのならないほど客の込み合う中で、彼は釣革《つりかわ》にぶら下りながらただ自分の事ばかり考えた。去年の疼痛《とうつう》がありありと記憶の舞台《ぶたい》に上《のぼ》った。白いベッドの上に横《よこた》えられた無残《みじめ》な自分の姿が明かに見えた。鎖を切って逃げる事ができない時に犬の出すような自分の唸《うな》り声が判然《はっきり》聴えた。それから冷たい刃物の光と、それが互に触れ合う音と、最後に突然両方の肺臓から一度に
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