に一種の暗示であった。彼は午後の何時間かをその軽便に揺られる転地者であった。ことによると同じ方角へ遊びに行く連中かも知れないと思った津田の耳は、彼らの談話に対して急に鋭敏になった。転席の余地がないので、不便な姿勢と図抜《ずぬ》けた大声を忍ばなければならなかった二人の云う事は一々津田に聴こえた。
「こんな天気になろうとは思わなかったね。これならもう一日延ばした方が楽だった」
中折《なかおれ》に駱駝《らくだ》の外套《がいとう》を着た落ちつきのある男の方がこういうと、爺さんはすぐ答えた。
「何たかが雨だあね。濡《ぬ》れると思やあ、何でもねえ」
「だが荷物が厄介《やっかい》だよ。あの軽便へ雨曝《あまざら》しのまま載せられる事を考えると、少し心細くなるから」
「じゃおいらの方が雨曝しになって、荷物だけを室《へや》の中へ入れて貰う事にしよう」
二人は大きな声を出して笑った。その後で爺さんがまた云った。
「もっともこの前のあの騒ぎがあるからね。途中で汽缶《かま》へ穴が開《あ》いて動《いご》けなくなる汽車なんだから、全くのところ心細いにゃ違ない」
「あの時ゃどうして向うへ着いたっけ」
「なにあっちから来る奴《やつ》を山の中ほどで待ち合せてさ。その方の汽缶で引っ張り上げて貰ったじゃないか」
「なるほどね、だが汽缶を取り上げられた方の車はどうしたっけね」
「違《ちげ》えねえ、こっちで取り上げりゃ、向うは困らあ」
「だからさ、取り残された方の車はどうしたろうっていうのさ。まさか他《ひと》を救って、自分は立往生って訳もなかろう」
「今になって考えりゃ、それもそうだがね、あの時ゃ、てんで向うの車の事なんか考えちゃいられなかったからね。日は暮れかかるしさ、寒さは身に染みるしさ。顫《ふる》えちまわあね」
津田の推測はだんだんたしかになって来た。二人はその軽便の通じている線路の左右にある三カ所の温泉場のうち、どこかへ行くに違ないという鑑定さえついた。それにしてもこれから自分の身を二時間なり三時間なり委《まか》せようとするその軽便が、彼らのいう通り乱暴至極のものならば、この雨中どんな災難に会わないとも限らなかった。けれどもそこには東京ものの持って生れた誇張というものがあった。そんなに不完全なものですかと訊いてみようとしてそこに気のついた津田は、腹の中で苦笑しながら、質問をかける手数《てすう》を省《はぶ》いた。そうして今度は清子とその軽便とを聯結《れんけつ》して「女一人でさえ楽々往来ができる所だのに」と思いながら、面白半分にする興味本位の談話には、それぎり耳を貸さなかった。
百六十九
汽車が目的の停車場《ステーション》に着く少し前から、三人によって気遣《きづか》われた天候がしだいに穏かになり始めた時、津田は雨の収《おさ》まり際《ぎわ》の空を眺めて、そこに忙がしそうな雲の影を認めた。その雲は汽車の走る方角と反対の側《がわ》に向って、ずんずん飛んで行った。そうして後《あと》から後からと、あたかも前に行くものを追《おっ》かけるように、隙間《すきま》なく詰《つ》め寄せた。そのうち動く空の中に、やや明るい所ができてきた。ほかの部分より比較的薄く見える箇所がしだいに多くなった。就中《なかんずく》一角はもう少しすると風に吹き破られて、破れた穴から青い輝きを洩らしそうな気配《けはい》を示した。
思ったより自分に好意をもってくれた天候の前に感謝して、汽車を下りた津田は、そこからすぐ乗り換えた電車の中で、また先刻《さっき》会った二人伴《ふたりづれ》の男を見出した。はたして彼の思わく通り、自分と同じ見当へ向いて、同じ交通機関を利用する連中だと知れた時、津田は気をつけて彼らの手荷物を注意した。けれども彼らの雨曝《あまざら》しになるのを苦《く》に病んだほどの大嵩《おおがさ》なものはどこにも見当らなかった。のみならず、爺《じい》さんは自分が先刻云った事さえもう忘れているらしかった。
「ありがたい、大当りだ。だからやっぱり行こうと思った時に立っちまうに限るよ。これでぐずぐずして東京にいて御覧な。ああつまらねえ、こうと知ったら、思い切って今朝立っちまえばよかったと後悔するだけだからね」
「そうさ。だが東京も今頃はこのくらい好い天気になってるんだろうか」
「そいつあ行って見なけりゃ、ちょいと分らねえ。何なら電話で訊《き》いてみるんだ。だが大体《たいてい》間違《まちがい》はないよ。空は日本中どこへ行ったって続いてるんだから」
津田は少しおかしくなった。すると爺さんがすぐ話しかけた。
「あなたも湯治場《とうじば》へいらっしゃるんでしょう。どうもおおかたそうだろうと思いましたよ、先刻から」
「なぜですか」
「なぜって、そういう所へ遊びに行く人は、様子を見ると、すぐ分りま
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