すよ。ねえ」
 彼はこう云って隣りにいる自分の伴侶《つれ》を顧みた。中折《なかおれ》の人は仕方なしに「ああ」と答えた。
 この天眼通《てんがんつう》に苦笑を禁じ得なかった津田は、それぎり会話を切り上げようとしたところ、快豁《かいかつ》な爺さんの方でなかなか彼を放さなかった。
「だが旅行も近頃は便利になりましたね。どこへ行くにも身体《からだ》一つ動かせばたくさんなんですから、ありがたい訳さ。ことにこちとら見たいな気の早いものにはお誂向《あつらえむき》だあね。今度だって荷物なんか何にも持って来やしませんや、この合切袋《がっさいぶくろ》とこの大将のあの鞄《かばん》を差し引くと、残るのは命ばかりといいたいくらいのものだ。ねえ大将」
 大将の名をもって呼ばれた人はまた「ああ」と答えたぎりであった。これだけの手荷物を車室内へ持ち込めないとすれば、彼らのいわゆる「軽便」なるものは、よほど込み合うのか、さもなければ、常識をもって測るべからざる程度において不完全でなければならなかった。そこを確かめて見ようかと思った津田は、すぐ確かめても仕方がないという気を起して黙ってしまった。
 電車を下りた時、津田は二人の影を見失った。彼は停留所の前にある茶店で、写真版だの石版だのと、思い思いに意匠を凝《こ》らした温泉場の広告絵を眺めながら、昼食《ちゅうじき》を認《した》ためた。時間から云って、平常より一時間以上も後《おく》れていたその昼食は、膳《ぜん》を貪《むさ》ぼる人としての彼を思う存分に発揮させた。けれども発車は目前に逼《せま》っていた。彼は箸《はし》を投げると共にすぐまた軽便に乗り移らなければならなかった。
 基点に当る停車場《ステーション》は、彼の休んだ茶店のすぐ前にあった。彼は電車よりも狭いその車を眼の前に見つつ、下女から支度料の剰銭《つり》を受取ってすぐ表へ出た。切符に鋏《はさみ》を入れて貰う所と、プラットフォームとの間には距離というものがほとんどなかった。五六歩動くとすぐ足をかける階段へ届いてしまった。彼は車室のなかで、また先刻《さっき》の二人連れと顔を合せた。
「やあお早うがす。こっちへおかけなさい」
 爺《じい》さんは腰をずらして津田のために、彼の腕に抱えて来た膝《ひざ》かけを敷く余地を拵《こしら》えてくれた。
「今日は空《す》いてて結構です」
 爺さんは避寒避暑二様の意味で、暮から正月へかけて、それから七八|二月《ふたつき》に渉《わた》って、この線路に集ってくる湯治客《とうじきゃく》の、どんなに雑沓《ざっとう》するかをさも面白そうに例の調子で話して聴《き》かせた後《あと》で、自分の同伴者を顧みた。
「あんな時に女なんか伴《つ》れてくるのは実際罪だよ。尻《しり》が大きいから第一乗り切れねえやね。そうしてすぐ酔うから困らあ。鮨《すし》のように押しつめられてる中で、吐いたり戻したりさ。見っともねえ事ったら」
 彼は自分の傍《そば》に腰をかけている婦人の存在をまるで忘れているらしい口の利き方をした。

        百七十

 軽便の中でも、津田の平和はややともすると年を取ったこの楽天家のために乱されそうになった。これから目的地へ着いた時の様子、その様子しだいで取るべき自分の態度、そんなものが想像に描き出された旅館だの山だの渓流だのの光景のうちに、取りとめもなくちらちら動いている際《さい》などに、老人は急に彼を夢の裡《うち》から叩《たた》き起した。
「まだ仮橋《かりばし》のままでやってるんだから、呑気《のんき》なものさね。御覧なさい、土方があんなに働らいてるから」
 本式の橋が去年の出水《でみず》で押し流されたまままだ出来上らないのを、老人はさも会社の怠慢ででもあるように罵《ののし》った後で、海へ注ぐ河の出口に、新らしく作られた一構《ひとかまえ》の家を指《さ》して、また津田の注意を誘い出そうとした。
「あの家《うち》も去年波で浚《さら》われちまったんでさあ。でもすぐあんなに建てやがったから、軽便より少しゃ感心だ」
「この夏の避暑客を取り逃さないためでしょう」
「ここいらで一夏休むと、だいぶ応《こた》えるからね。やっぱり慾がなくっちゃ、何でも手っ取り早く仕事は片づかないものさね。この軽便だってそうでしょう、あなた、なまじいあの仮橋で用が足りてるもんだから、会社の方で、いつまでも横着《おうちゃく》をきめ込みやがって、掛《か》けかえねえんでさあ」
 津田は老人の人世観に一も二もなく調子を合すべく余儀なくされながら、談話の途切《とぎ》れ目《め》には、眼を眠るように構えて、自分自身に勝手な事を考えた。
 彼の頭の中は纏《まと》まらない断片的な映像《イメジ》のために絶えず往来された。その中には今朝見たお延の顔もあった。停車場《ステーション》まで来てくれた
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