前は行かないでもいいよ」
「なぜ」
「なぜって訳もないが、この雨の降るのに御苦労千万じゃないか」
「ちっとも」
お延の言葉があまりに無邪気だったので、津田は思わず失笑した。
「来て貰うのが迷惑だから断るんじゃないよ。気の毒だからだよ。たかが一日とかからない所へ行くのに、わざわざ送って貰うなんて、少し滑稽《こっけい》だからね。小林が朝鮮へ立つんでさえ、おれは送って行かないって、昨夜《ゆうべ》断っちまったくらいだ」
「そう、でもあたし宅《うち》にいたって、何にもする事がないんですもの」
「遊んでおいでよ。構わないから」
お延がとうとう苦笑して、争う事をやめたので、津田は一人|俥《くるま》を駆って宅を出る事ができた。
周囲の混雑と対照を形成《かたちづく》る雨の停車場《ステーション》の佗《わび》しい中に立って、津田が今買ったばかりの中等切符《ちゅうとうきっぷ》を、ぼんやり眺めていると、一人の書生が突然彼の前へ来て、旧知己のような挨拶《あいさつ》をした。
「あいにくなお天気で」
それはこの間始めて見た吉川の書生であった。取次に出た時玄関で会ったよそよそしさに引き換えて、今日は鳥打を脱ぐ態度からしてが丁寧であった。津田は何の意味だかいっこう気がつかなかった。
「どなたかどちらへかいらっしゃるんですか」
「いいえ、ちょっとお見送りに」
「だからどなたを」
書生は弱らせられたような様子をした。
「実は奥さまが、今日は少し差支《さしつか》えがあるから、これを持って代りに行って来てくれとおっしゃいました」
書生は手に持った果物《くだもの》の籃《かご》を津田に示した。
「いやそりゃどうも、恐れ入りました」
津田はすぐその籃を受け取ろうとした。しかし書生は渡さなかった。
「いえ私が列車の中まで持って参ります」
汽車が出る時、黙って丁寧に会釈《えしゃく》をした書生に、「どうぞ宜《よろ》しく」と挨拶を返した津田は、比較的込み合わない車室の一隅に、ゆっくりと腰をおろしながら、「やっぱりお延に来て貰わない方がよかったのだ」と思った。
百六十八
お延の気を利かして外套《がいとう》の隠袋《かくし》へ入れてくれた新聞を津田が取り出して、いつもより念入りに眼を通している頃に、窓外《そうがい》の空模様はだんだん悪くなって来た。先刻《さっき》まで疎《まば》らに眺められた雨の糸が急に数を揃《そろ》えて、見渡す限の空間を一度に充《み》たして来る様子が、比較的展望に便利な汽車の窓から見ると、一層|凄《すさ》まじく感ぜられた。
雨の上には濃い雲があった。雨の横にも限界の遮《さえ》ぎられない限りは雲があった。雲と雨との隙間《すきま》なく連続した広い空間が、津田の視覚をいっぱいに冒《おか》した時、彼は荒涼《こうりょう》なる車外の景色と、その反対に心持よく設備の行き届いた車内の愉快とを思い較《くら》べた。身体《からだ》を安逸の境に置くという事を文明人の特権のように考えている彼は、この雨を衝《つ》いて外部《そと》へ出なければならない午後の心持を想像しながら、独《ひと》り肩を竦《すく》めた。すると隣りに腰をかけて、ぽつりぽつりと窓硝子《まどガラス》を打つたびに、点滴の珠《たま》を表面に残して砕けて行く雨の糸を、ぼんやり眺めていた四十恰好《しじゅうがっこう》の男が少し上半身を前へ屈《かが》めて、向側《むこうがわ》に胡坐《あぐら》を掻《か》いている伴侶《つれ》に話しかけた。しかし雨の音と汽車の音が重なり合うので、彼の言葉は一度で相手に通じなかった。
「ひどく降って来たね。この様子じゃまた軽便の路《みち》が壊れやしないかね」
彼は仕方なしに津田の耳へも入るような大きな声を出してこう云った。
「なに大丈夫だよ。なんぼ名前が軽便だって、そう軽便に壊れられた日にゃ乗るものが災難だあね」
これが相手の答であった。相手というのは羅紗《らしゃ》の道行《みちゆき》を着た六十恰好《ろくじゅうがっこう》の爺《じい》さんであった。頭には唐物屋《とうぶつや》を探《さが》しても見当りそうもない変な鍔《つば》なしの帽子を被《かぶ》っていた。煙草入《たばこいれ》だの、唐桟《とうざん》の小片《こぎれ》だの、古代更紗《こだいさらさ》だの、そんなものを器用にきちんと並べ立てて見世を張る袋物屋《ふくろものや》へでも行って、わざわざ注文しなければ、とうてい頭へ載せる事のできそうもないその帽子の主人は、彼の言葉|遣《づか》いで東京生れの証拠を充分に挙げていた。津田は服装に似合わない思いのほか濶達《かったつ》なこの爺さんの元気に驚ろくと同時に、どっちかというと、ベランメーに接近した彼の口の利き方にも意外を呼んだ。
この挨拶《あいさつ》のうちに偶然使用された軽便という語は、津田にとってたしか
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