》の望を抱《いだ》いた津田は、もう少し黙って事の成行を見る事にきめた。
やがて二人の間に問答が起った。
「なぜ取らないんだ、原君」
「でもあんまり御気の毒ですから」
「僕は僕でまた君の方を気の毒だと思ってるんだ」
「ええ、どうもありがとう」
「君の前に坐《すわ》ってるその男は男でまた僕の方を気の毒だと思ってるんだ」
「はあ」
原はさっぱり通じないらしい顔をして津田を見た。小林はすぐ説明した。
「その紙幣は三枚共、僕が今その男から貰《もら》ったんだ。貰い立てのほやほやなんだ」
「じゃなおどうも……」
「なおどうもじゃない。だからだ。だから僕も安々と君にやれるんだ。僕が安々と君にやれるんだから、君も安々と取れるんだ」
「そういう論理《ロジック》になるかしら」
「当り前さ。もしこれが徹夜して書き上げた一枚三十五銭の原稿から生れて来た金なら、何ぼ僕だって、少しは執着が出るだろうじゃないか。額からぽたぽた垂れる膏汗《あぶらあせ》に対しても済まないよ。しかしこれは何でもないんだ。余裕が空間に吹き散らしてくれる浄財《じょうざい》だ。拾ったものが功徳《くどく》を受ければ受けるほど余裕は喜こぶだけなんだ。ねえ津田君そうだろう」
忌々《いまいま》しい関所をもう通り越していた津田は、かえって好いところで相談をかけられたと同じ事であった。鷹揚《おうよう》な彼の一諾は、今夜ここに落ち合った不調和な三人の会合に、少くとも形式上|体裁《ていさい》の好い結末をつけるのに充分であった。彼は醜陋《しゅうろう》に見える自分の退却を避けるために眼前の機会を捕えた。
「そうだね。それが一番いいだろう」
小林は押問答の末、とうとう三枚のうち一枚を原の手に渡した。残る二枚を再びもとの隠袋《ポケット》へ収める時、彼は津田に云った。
「珍らしく余裕が下から上へ流れた。けれどもここから上へはもう逆戻りをしないそうだ。だからやっぱり君に対してサンクスだ」
表へ出た三人は濠端《ほりばた》へ来て、電車を待ち合せる間大きな星月夜《ほしづきよ》を仰いだ。
百六十七
間《ま》もなく三人は離れ離れになった。
「じゃ失敬、僕は停車場《ステーション》へ送って行かないよ」
「そうか、来たってよさそうなものだがね。君の旧友が朝鮮へ行くんだぜ」
「朝鮮でも台湾でも御免だ」
「情合《じょうあい》のない事|夥《おびた》だしいものだ。そんなら立つ前にもう一遍こっちから暇乞《いとまごい》に行くよ、いいかい」
「もうたくさんだ、来てくれなくっても」
「いや行く。でないと何だか気がすまないから」
「勝手にしろ。しかし僕はいないよ、来ても。明日《あした》から旅行するんだから」
「旅行? どこへ」
「少し静養の必要があるんでね」
「転地か、洒落《しゃれ》てるな」
「僕に云わせると、これも余裕の賜物《たまもの》だ。僕は君と違って飽《あ》くまでもこの余裕に感謝しなければならないんだ」
「飽くまでも僕の注意を無意味にして見せるという気なんだね」
「正直のところを云えば、まあそこいらだろうよ」
「よろしい、どっちが勝つかまあ見ていろ。小林に啓発《けいはつ》されるよりも、事実その物に戒飭《かいしょく》される方が、遥《はる》かに覿面《てきめん》で切実でいいだろう」
これが別れる時二人の間に起った問答であった。しかしそれは宵《よい》から持ち越した悪感情、津田が小林に対して日暮以来貯蔵して来た悪感情、の発現に過ぎなかった。これで幾分か溜飲《りゅういん》が下りたような気のした津田には、相手の口から出た最後の言葉などを考える余地がなかった。彼は理非の如何《いかん》に関わらず、意地にも小林ごときものの思想なり議論なりを、切って棄《す》てなければならなかった。一人になった彼は、電車の中ですぐ温泉場の様子などを想像に描き始めた。
明《あく》る朝《あさ》は風が吹いた。その風が疎《まば》らな雨の糸を筋違《すじかい》に地面の上へ運んで来た。
「厄介《やっかい》だな」
時間通りに起きた津田は、縁鼻《えんばな》から空を見上げて眉を寄せた。空には雲があった。そうしてその雲は眼に見える風のように断えず動いていた。
「ことによると、お午《ひる》ぐらいから晴れるかも知れないわね」
お延は既定の計画を遂行する方に賛成するらしい言葉つきを見せた。
「だって一日|後《おく》れると一日|徒為《むだ》になるだけですもの。早く行って早く帰って来ていただく方がいいわ」
「おれもそのつもりだ」
冷たい雨によって乱されなかった夫婦間の取極《とりきめ》は、出立間際になって、始めて少しの行違を生じた。箪笥《たんす》の抽斗《ひきだし》から自分の衣裳《いしょう》を取り出したお延は、それを夫の洋服と並べて渋紙の上へ置いた。津田は気がついた。
「お
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