を呼んだ。
「ちょっと二階にある紙入を取ってくれ。御前の蟇口《がまぐち》でも好い」
「何《なん》になさるの」
 お延には夫の意味がまるで解らなかった。
「何でもいいから早く出してくれ」
 彼はお延から受取った蟇口を懐中《ふところ》へ放《ほう》り込《こ》んだまま、すぐ大通りの方へ引き返した。そうして電車に乗った。
 彼がかなり大きな紙包を抱えてまた戻って来たのは、それから約三四十分|後《ご》で、もう午《ひる》に間もない頃であった。
「あの蟇口の中にゃ少しっきゃ入っていないんだね。もう少しあるのかと思ったら」
 津田はそう云いながら腋《わき》に抱えた包みを茶の間の畳の上へ放り出した。
「足りなくって?」
 お延は細かい事にまで気を遣《つか》わないではいられないという眼つきを夫の上に向けた。
「いや足りないというほどでもないがね」
「だけど何をお買いになるかあたしちっとも解らないんですもの。もしかすると髪結床《かみいどこ》かと思ったけれども」
 津田は二カ月以上手を入れない自分の頭に気がついた。永く髪を刈らないと、心持|番《ばん》の小さい彼の帽子が、被《かぶ》るたんびに少しずつきしんで来るようだという、つい昨日《きのう》の朝受けた新らしい感じまで思い出した。
「それにあんまり急いでいらっしったもんだから、つい二階まで取りに行けなかったのよ」
「実はおれの紙入の中にも、そうたくさん入ってる訳じゃないんだから、まあどっちにしたって大した変りはないんだがね」
 彼は蟇口の悪口《わるくち》ばかり云えた義理でもなかった。
 お延は手早く包紙を解いて、中から紅茶の缶《かん》と、麺麭《パン》と牛酪《バタ》を取り出した。
「おやおやこれ召《め》しゃがるの。そんなら時《とき》を取りにおやりになればいいのに」
「なにあいつじゃ分らない。何を買って来るか知れやしない」
 やがて好い香《におい》のするトーストと濃いけむりを立てるウーロン茶とがお延の手で用意された。
 朝飯《あさめし》とも午飯《ひるめし》とも片のつかない、極《きわ》めて単純な西洋流の食事を済ました後で、津田は独《ひと》りごとのように云った。
「今日は病気の報知かたがた無沙汰見舞《ぶさたみまい》に、ちょっと朝の内藤井の叔父《おじ》の所まで行って来《き》ようと思ってたのに、とうとう遅くなっちまった」
 彼の意味は仕方がないから午後にこの訪問の義務を果そうというのであった。

        二十

 藤井というのは津田の父の弟であった。広島に三年長崎に二年という風に、方々移り歩かなければならない官吏生活を余儀なくされた彼の父は、教育上津田を連れて任地任地を巡礼のように経《へ》めぐる不便と不利益とに痛《いた》く頭を悩ましたあげく、早くから彼をその弟に託して、いっさいの面倒を見て貰う事にした。だから津田は手もなくこの叔父に育て上げられたようなものであった。したがって二人の関係は普通の叔父|甥《おい》の域《いき》を通り越していた。性質や職業の差違を問題のほかに置いて評すると、彼らは叔父甥というよりもむしろ親子であった。もし第二の親子という言葉が使えるなら、それは最も適切にこの二人の間柄《あいだがら》を説明するものであった。
 津田の父と違ってこの叔父はついぞ東京を離れた事がなかった。半生の間|始終《しじゅう》動き勝であった父に比べると、単にこの点だけでもそこに非常な相違があった。少なくとも非常な相違があるように津田の眼には映じた。
「緩慢《かんまん》なる人世の旅行者」
 叔父がかつて津田の父を評した言葉のうちにこういう文句があった。それを何気なく小耳に挟《はさ》んだ津田は、すぐ自分の父をそういう人だと思い込んでしまった。そうして今日《こんにち》までその言葉を忘れなかった。しかし叔父の使った文句の意味は、頭の発達しない当時よく解らなかったと同じように、今になっても判然《はっきり》しなかった。ただ彼は父の顔を見るたんびにそれを思い出した。肉の少ない細面《ほそおもて》の腮《あご》の下に、売卜者《うらないしゃ》見たような疎髯《そぜん》を垂らしたその姿と、叔父のこの言葉とは、彼にとってほとんど同じものを意味していた。
 彼の父は今から十年ばかり前に、突然|遍路《へんろ》に倦《う》み果てた人のように官界を退いた。そうして実業に従事し出した。彼は最後の八年を神戸で費《つい》やした後《あと》、その間に買っておいた京都の地面へ、新らしい普請《ふしん》をして、二年前にとうとうそこへ引き移った。津田の知らない間《ま》に、この閑静《かんせい》な古い都が、彼の父にとって隠栖《いんせい》の場所と定められると共に、終焉《しゅうえん》の土地とも変化したのである。その時叔父は鼻の頭へ皺《しわ》を寄せるようにして津田に云った。
「兄貴は
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