それでも少し金が溜《たま》ったと見えるな。あの風船玉が、じっと落ちつけるようになったのは、全く金の重みのために違ない」
しかし金の重みのいつまで経《た》ってもかからない彼自身は、最初から動かなかった。彼は始終《しじゅう》東京にいて始終貧乏していた。彼はいまだかつて月給というものを貰った覚《おぼえ》のない男であった。月給が嫌いというよりも、むしろくれ手がなかったほどわがままだったという方が適当かも知れなかった。規則ずくめな事に何でも反対したがった彼は、年を取ってその考が少し変って来た後《あと》でも、やはり以前の強情を押し通していた。これは今さら自分の主義を改めたところで、ただ人に軽蔑《けいべつ》されるだけで、いっこう得《とく》にはならないという事をよく承知しているからでもあった。
実際の世の中に立って、端的《たんてき》な事実と組み打ちをして働らいた経験のないこの叔父は、一面において当然|迂濶《うかつ》な人生批評家でなければならないと同時に、一面においてははなはだ鋭利な観察者であった。そうしてその鋭利な点はことごとく彼の迂濶な所から生み出されていた。言葉を換《か》えていうと、彼は迂濶の御蔭《おかげ》で奇警《きけい》な事を云ったり為《し》たりした。
彼の知識は豊富な代りに雑駁《ざっぱく》であった。したがって彼は多くの問題に口を出したがった。けれどもいつまで行っても傍観者の態度を離れる事ができなかった。それは彼の位地《いち》が彼を余儀なくするばかりでなく、彼の性質が彼をそこに抑《おさ》えつけておくせいでもあった。彼は或頭をもっていた。けれども彼には手がなかった。もしくは手があっても、それを使おうとしなかった。彼は始終|懐手《ふところで》をしていたがった。一種の勉強家であると共に一種の不精者《ぶしょうもの》に生れついた彼は、ついに活字で飯を食わなければならない運命の所有者に過ぎなかった。
二十一
こういう人にありがちな場末生活《ばすえせいかつ》を、藤井は市の西北《にしきた》にあたる高台の片隅《かたすみ》で、この六七年続けて来たのである。ついこの間まで郊外に等しかったその高台のここかしこに年々《ねんねん》建て増される大小の家が、年々彼の眼から蒼《あお》い色を奪って行くように感ぜられる時、彼は洋筆《ペン》を走らす手を止《や》めて、よく自分の兄の身の上を考えた。折々は兄から金でも借りて、自分も一つ住宅を拵《こしら》えて見ようかしらという気を起した。その金を兄はとても貸してくれそうもなかった。自分もいざとなると貸して貰う性分ではなかった。「緩慢《かんまん》なる人生の旅行者」と兄を評した彼は、実を云うと、物質的に不安なる人生の旅行者であった。そうして多数の人の場合において常に見出されるごとく、物質上の不安は、彼にとってある程度の精神的不安に過ぎなかった。
津田の宅《うち》からこの叔父の所へ行くには、半分道《はんぶんみち》ほど川沿《かわぞい》の電車を利用する便利があった。けれどもみんな歩いたところで、一時間とかからない近距離なので、たまさかの散歩がてらには、かえってやかましい交通機関の援《たすけ》に依らない方が、彼の勝手であった。
一時少し前に宅《うち》を出た津田は、ぶらぶら河縁《かわべり》を伝《つた》って終点の方に近づいた。空は高かった。日の光が至る所に充《み》ちていた。向うの高みを蔽《おお》っている深い木立《こだち》の色が、浮き出したように、くっきり見えた。
彼は道々|今朝《けさ》買い忘れたリチネの事を思い出した。それを今日の午後四時頃に呑めと医者から命令された彼には、ちょっと薬種屋へ寄ってこの下剤を手に入れておく必要があった。彼はいつもの通り終点を右へ折れて橋を渡らずに、それとは反対な賑《にぎ》やかな町の方へ歩いて行こうとした。すると新らしく線路を延長する計劃でもあると見えて、彼の通路に当る往来の一部分が、最も無遠慮な形式で筋違《すじかい》に切断されていた。彼は残酷に在来の家屋を掻《か》き※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《むし》って、無理にそれを取り払ったような凸凹《でこぼこ》だらけの新道路の角《かど》に立って、その片隅《かたすみ》に塊《かた》まっている一群《いちぐん》の人々を見た。群集はまばらではあるが三列もしくは五列くらいの厚さで、真中にいる彼とほぼ同年輩ぐらいな男の周囲に半円形をかたちづくっていた。
小肥《こぶと》りにふとったその男は双子木綿《ふたこもめん》の羽織着物に角帯《かくおび》を締《し》めて俎下駄《まないたげた》を穿《は》いていたが、頭には笠《かさ》も帽子も被《かぶ》っていなかった。彼の後《うしろ》に取り残された一本の柳を盾《たて》に、彼は綿《めん》フラネルの裏の付いた大きな袋を
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