ぱり昨日の方が愉快だったという気が彼の胸のどこかでした。彼は立ちながら、「お延お延」と呼んだ。すると思いがけない二階の方で「はい」という返事がした。それから階子段《はしごだん》を踏んで降りて来る彼女の足音が聞こえた。同時に下女が勝手の方から馳《か》け出して来た。
「何をしているんだ」
 津田の言葉には多少不満の響きがあった。お延は何にも云わなかった。しかしその顔を見上げた時、彼はいつもの通り無言の裡《うち》に自分を牽《ひ》きつけようとする彼女の微笑を認めない訳に行かなかった。白い歯が何より先に彼の視線を奪った。
「二階は真暗じゃないか」
「ええ。何だかぼんやりして考えていたもんだから、つい御帰りに気がつかなかったの」
「寝ていたな」
「まさか」
 下女が大きな声を出して笑い出したので、二人の会話はそれぎり切れてしまった。
 湯に行く時、お延は「ちょっと待って」と云いながら、石鹸と手拭《てぬぐい》を例の通り彼女の手から受け取って火鉢《ひばち》の傍《そば》を離れようとする夫を引きとめた。彼女は後《うし》ろ向《むき》になって、重《かさ》ね箪笥《だんす》の一番下の抽斗《ひきだし》から、ネルを重ねた銘仙《めいせん》の褞袍《どてら》を出して夫の前へ置いた。
「ちょっと着てみてちょうだい。まだ圧《おし》が好く利《き》いていないかも知れないけども」
 津田は煙《けむ》に巻かれたような顔をして、黒八丈《くろはちじょう》の襟《えり》のかかった荒い竪縞《たてじま》の褞袍《どてら》を見守《みま》もった。それは自分の買った品でもなければ、拵《こしら》えてくれと誂《あつら》えた物でもなかった。
「どうしたんだい。これは」
「拵えたのよ。あなたが病院へ入る時の用心に。ああいう所で、あんまり変な服装《なり》をしているのは見っともないから」
「いつの間に拵えたのかね」
 彼が手術のため一週間ばかり家《うち》を空《あ》けなければならないと云って、その訳をお延に話したのは、つい二三日前《にさんちまえ》の事であった。その上彼はその日から今日《きょう》に至るまで、ついぞ針を持って裁物板《たちものいた》の前に坐《すわ》った細君の姿を見た事がなかった。彼は不思議の感に打たれざるを得なかった。お延はまた夫のこの驚きをあたかも自分の労力に対する報酬のごとくに眺めた。そうしてわざと説明も何も加えなかった。
「布《きれ》は買ったのかい」
「いいえ、これあたしの御古《おふる》よ。この冬着ようと思って、洗張《あらいはり》をしたまま仕立てずにしまっといたの」
 なるほど若い女の着る柄《がら》だけに、縞《しま》がただ荒いばかりでなく、色合《いろあい》もどっちかというとむしろ派出《はで》過ぎた。津田は袖《そで》を通したわが姿を、奴凧《やっこだこ》のような風をして、少しきまり悪そうに眺めた後でお延に云った。
「とうとう明日《あした》か明後日《あさって》やって貰う事にきめて来たよ」
「そう。それであたしはどうなるの」
「御前はどうもしやしないさ」
「いっしょに随《つ》いて行っちゃいけないの。病院へ」
 お延は金の事などをまるで苦にしていないらしく見えた。

        十九

 津田の明《あく》る朝《あさ》眼を覚《さ》ましたのはいつもよりずっと遅かった。家の内《なか》はもう一片付《ひとかたづき》かたづいた後のようにひっそり閑《かん》としていた。座敷から玄関を通って茶の間の障子《しょうじ》を開けた彼は、そこの火鉢の傍《そば》にきちんと坐って新聞を手にしている細君を見た。穏やかな家庭を代表するような音を立てて鉄瓶《てつびん》が鳴っていた。
「気を許して寝ると、寝坊《ねぼう》をするつもりはなくっても、つい寝過ごすもんだな」
 彼は云い訳らしい事をいって、暦《こよみ》の上にかけてある時計を眺めた。時計の針はもう十時近くの所を指《さ》していた。
 顔を洗ってまた茶の間へ戻った時、彼は何気なく例の黒塗の膳《ぜん》に向った。その膳は彼の着席を待ち受けたというよりも、むしろ待ち草臥《くたび》れたといった方が適当であった。彼は膳の上に掛けてある布巾《ふきん》を除《と》ろうとしてふと気がついた。
「こりゃいけない」
 彼は手術を受ける前日に取るべき注意を、かつて医者から聞かされた事を思い出した。しかし今の彼はそれを明らかに覚えていなかった。彼は突然細君に云った。
「ちょっと訊《き》いてくる」
「今すぐ?」
 お延は吃驚《びっくり》して夫の顔を見た。
「なに電話でだよ。訳ゃない」
 彼は静かな茶の間の空気を自分で蹴散《けち》らす人のように立ち上ると、すぐ玄関から表へ出た。そうして電車通りを半丁《はんちょう》ほど右へ行った所にある自動電話へ馳《か》けつけた。そこからまた急ぎ足に取って返した彼は玄関に立ったまま細君
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