に、彼の予期した通りの言葉がすぐ彼女の口から洩《も》れた。
「実を云うと、私も皆さんと同なじ意見ですよ」
権威ででもあるような調子で、最後にこう云った夫人の前に、彼はもちろん反抗の声を揚げる勇気を出す必要を認めなかった。しかし腹の中では同時に妙な思《おも》わく違《ちがい》に想《おも》いいたった。彼は疑った。
「何でこの人が急にこんな態度になったのだろう。自分のお延を鄭重《ていちょう》に取扱い過ぎるのが悪いといって非難する上に、お延自身をもその非難のうちに含めているのではなかろうか」
この疑いは津田にとって全く新らしいものであった。夫人の本意に到着する想像上の過程を描き出す事さえ彼には困難なくらい新らしいものであった。彼はこの疑問に立ち向う前に、まだ自分の頭の中に残っている一つの質問を掛けた。
「岡本さんでも、そんな評判があるんでしょうか」
「岡本は別よ。岡本の事なんか私の関係するところじゃありません」
夫人がすましてこう云い切った時、津田は思わずおやと思った。「じゃ岡本とあなたの方は別っこだったんですか」という次の問が、自然の順序として、彼の咽喉《のど》まで出かかった。
実を云うと、彼は「世間」の取沙汰通《とりざたどお》り、お延を大事にするのではなかった。誤解交《ごかいまじ》りのこの評判が、どこからどうして起ったかを、他《ひと》に説明しようとすれば、ずいぶん複雑な手数《てすう》がかかるにしても、彼の頭の中にはちゃんとした明晰《めいせき》な観念があって、それを一々|掌《たなごころ》に指《さ》す事のできるほどに、事実の縞柄《しまがら》は解っていた。
第一の責任者はお延その人であった。自分がどのくらい津田から可愛がられ、また津田をどのくらい自由にしているかを、最も曲折の多い角度で、あらゆる方面に反射させる手際をいたるところに発揮して憚《はば》からないものは彼女に違《ちがい》なかった。第二の責任者はお秀であった。すでに一種の誇張がある彼女の眼を、一種の嫉妬《しっと》が手伝って染めた。その嫉妬がどこから出て来るのか津田は知らなかった。結婚後始めて小姑《こじゅうと》という意味を悟った彼は、せっかく悟った意味を、解釈のできないために持て余した。第三の責任者は藤井の叔父夫婦であった。ここには誇張も嫉妬《しっと》もない代りに、浮華《ふか》に対する嫌悪《けんお》があまり強く働らき過ぎた。だから結果はやはり誤解と同じ事に帰着した。
百三十四
津田にはこの誤解を誤解として通しておく特別な理由があった。そうしてその理由はすでに小林の看破《かんぱ》した通りであった。だから彼はこの誤解から生じやすい岡本の好意を、できるだけ自分の便宜《べんぎ》になるように保留しようと試みた。お延を鄭寧《ていねい》に取扱うのは、つまり岡本家の機嫌《きげん》を取るのと同じ事で、その岡本と吉川とは、兄弟同様に親しい間柄である以上、彼の未来は、お延を大事にすればするほど確かになって来る道理であった。利害の論理《ロジック》に抜目のない機敏さを誇りとする彼は、吉川夫妻が表向《おもてむき》の媒妁人《ばいしゃくにん》として、自分達二人の結婚に関係してくれた事実を、単なる名誉として喜こぶほどの馬鹿ではなかった。彼はそこに名誉以外の重大な意味を認めたのである。
しかしこれはむしろ一般的の内情に過ぎなかった。もう一皮|剥《む》いて奥へ入ると、底にはまだ底があった。津田と吉川夫人とは、事件がここへ来るまでに、他人の関知しない因果《いんが》でもう結びつけられていた。彼らにだけ特有な内外の曲折を経過して来た彼らは、他人より少し複雑な眼をもって、半年前に成立したこの新らしい関係を眺めなければならなかった。
有体《ありてい》にいうと、お延と結婚する前の津田は一人の女を愛していた。そうしてその女を愛させるように仕向けたものは吉川夫人であった。世話好な夫人は、この若い二人を喰っつけるような、また引き離すような閑手段《かんしゅだん》を縦《ほしい》ままに弄《ろう》して、そのたびにまごまごしたり、または逆《のぼ》せ上《あが》ったりする二人を眼の前に見て楽しんだ。けれども津田は固く夫人の親切を信じて疑がわなかった。夫人も最後に来《きた》るべき二人の運命を断言して憚《はば》からなかった。のみならず時機の熟したところを見計って、二人を永久に握手させようと企てた。ところがいざという間際になって、夫人の自信はみごとに鼻柱を挫《くじ》かれた。津田の高慢も助かるはずはなかった。夫人の自信と共に一棒に撲殺《ぼくさつ》された。肝心《かんじん》の鳥はふいと逃げたぎり、ついに夫人の手に戻って来なかった。
夫人は津田を責めた。津田は夫人を責めた。夫人は責任を感じた。しかし津田は感じなかった。彼は今日《
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