さた》をしているので、たまにはお詫《わび》に上らないと悪いとでも思ったのでしょう」
「いえそうじゃないの」
 津田は夫人の言葉を聴《き》いた後で、すぐ次の嘘《うそ》を出した。
「しかしあいつに用のある訳もないでしょう」
「ところがあったんです」
「へええ」
 津田はこう云ったなりその後《あと》を待った。
「何の用だかあてて御覧なさい」
 津田は空《そら》っ惚《とぼ》けて、考える真似《まね》をした。
「そうですね、お秀の用事というと、――さあ何でしょうかしら」
「分りませんか」
「ちょっとどうも。――元来私とお秀とは兄妹《きょうだい》でいながら、だいぶん質《たち》が違いますから」
 津田はここで余計な兄妹関係をわざと仄《ほの》めかした。それは事の来《く》る前に、自分を遠くから弁護しておくためであった。それから自分の言葉を、夫人がどう受けてくれるか、その反響をちょっと聴いてみるためであった。
「少し理窟《りくつ》ッぽいのね」
 この一語を聞くや否や、津田は得《え》たり賢《かし》こしと虚《きょ》につけ込んだ。
「あいつの理窟と来たら、兄の私でさえ悩まされるくらいですもの。誰だって、とてもおとなしく辛抱して聴《き》いていられたものじゃございません。だから私はあいつと喧嘩《けんか》をすると、いつでも好い加減にして投げてしまいます。するとあいつは好い気になって、勝ったつもりか何かで、自分の都合の好い事ばかりを方々へ行って触れ散らかすのです」
 夫人は微笑した。津田はそれを確かに自分の方に同情をもった微笑と解釈する事ができた。すると夫人の言葉が、かえって彼の思わくとは逆の見当《けんとう》を向いて出た。
「まさかそうでもないでしょうけれどもね。――しかしなかなか筋の通った好い頭をもった方じゃありませんか。あたしあの方《かた》は好《すき》よ」
 津田は苦笑した。
「そりゃお宅なんぞへ上って、むやみに地金《じがね》を出すほどの馬鹿でもないでしょうがね」
「いえ正直よ、秀子さんの方が」
 誰よりお秀が正直なのか、夫人は説明しなかった。

        百三十二

 津田の好奇心は動いた。想像もほぼついた。けれどもそこへ折れ曲って行く事は彼の主意に背《そむ》いた。彼はただ夫人対お秀の関係を掘り返せばよかった。病気見舞を兼た夫人の用向《ようむき》も、無論それについての懇談にきまっていた。けれども彼女にはまた彼女に特有な趣《おもむき》があった。時間に制限のない彼女は、頼まれるまでもなく、機会さえあれば、他《ひと》の内輪に首を突ッ込んで、なにかと眼下《めした》、ことに自分の気に入った眼下の世話を焼きたがる代りに、到《いた》るところでまた道楽本位の本性を露《あら》わして平気であった。或時の彼女はむやみに急《せ》いて事を纏《まと》めようとあせった。そうかと思うと、ある時の彼女は、また正反対であった。わざわざべんべんと引ッ張るところに、さも興味でもあるらしい様子を見せてすましていた。鼠《ねずみ》を弄《もてあ》そぶ猫のようなこの時の彼女の態度が、たとい傍《はた》から見てどうあろうとも、自分では、閑散な時間に曲折した波瀾《はらん》を与えるために必要な優者の特権だと解釈しているらしかった。この手にかかった時の相手には、何よりも辛防《しんぼう》が大切であった。その代り辛防をし抜いた御礼はきっと来た。また来る事をもって彼女は相手を奨励した。のみならずそれを自分の倫理上の誇りとした。彼女と津田の間に取り換わされたこの黙契《もっけい》のために、津田の蒙《こうむ》った重大な損失が、今までにたった一つあった。その点で彼女が腹の中でいかに彼に対する責任を感じているかは、怜俐《れいり》な津田の見逃《みのが》すところでなかった。何事にも夫人の御意《ぎょい》を主眼に置いて行動する彼といえども、暗《あん》にこの強味だけは恃《たの》みにしていた。しかしそれはいざという万一の場合に保留された彼の利器に過ぎなかった。平生の彼は甘んじて猫の前の鼠となって、先方の思う通りにじゃらされていなければならなかった。この際の夫人もなかなか要点へ来る前に時間を費やした。
「昨日《きのう》秀子さんが来たでしょう。ここへ」
「ええ。参りました」
「延子さんも来たでしょう」
「ええ」
「今日は?」
「今日はまだ参りません」
「今にいらっしゃるんでしょう」
 津田にはどうだか分らなかった。先刻《さっき》来るなという手紙を出した事も、夫人の前では云えなかった。返事を受け取らなかった勝手違も、実は気にかかっていた。
「どうですかしら」
「いらっしゃるか、いらっしゃらないか分らないの」
「ええ、よく分りません。多分来ないだろうとは思うんですが」
「大変冷淡じゃありませんか」
 夫人は嘲《あざ》けるような笑い方をした。

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