、それでいいんです」
「あなただけを女と思えとおっしゃるのね。そりゃ解《わか》るわ。けれどもほかの女を女と思っちゃいけないとなるとまるで自殺と同じ事よ。もしほかの女を女と思わずにいられるくらいな夫なら、肝心《かんじん》のあなただって、やッぱり女とは思わないでしょう。自分の宅《うち》の庭に咲いた花だけが本当の花で、世間にあるのは花じゃない枯草だというのと同じ事ですもの」
「枯草でいいと思いますわ」
「あなたにはいいでしょう。けれども男には枯草でないんだから仕方がありませんわ。それよりか好きな女が世の中にいくらでもあるうちで、あなたが一番好かれている方が、嫂《ねえ》さんにとってもかえって満足じゃありませんか。それが本当に愛されているという意味なんですもの」
「あたしはどうしても絶対に愛されてみたいの。比較なんか始めから嫌《きら》いなんだから」
 お秀の顔に軽蔑《けいべつ》の色が現われた。その奥には何という理解力に乏しい女だろうという意味がありありと見透《みす》かされた。お延はむらむらとした。
「あたしはどうせ馬鹿だから理窟《りくつ》なんか解らないのよ」
「ただ実例をお見せになるだけなの。その方が結構だわね」
 お秀は冷然として話を切り上げた。お延は胸の奥で地団太《じだんだ》を踏んだ。せっかくの努力はこれ以上何物をも彼女に与える事ができなかった。留守《るす》に彼女を待つ津田の手紙が来ているとも知らない彼女は、そのまま堀の家を出た。

        百三十一

 お延とお秀が対坐《たいざ》して戦っている間に、病院では病院なりに、また独立した予定の事件が進行した。
 津田の待ち受けた吉川夫人がそこへ顔を出したのは、お延|宛《あて》で書いた手紙を持たせてやった車夫がまだ帰って来ないうちで、時間からいうと、ちょうど小林の出て行った十分ほど後《あと》であった。
 彼は看護婦の口から夫人の名前を聴《き》いた時、この異人種《いじんしゅ》に近い二人が、狭い室《へや》で鉢合《はちあわ》せをしずにすんだ好都合《こうつごう》を、何より先にまず祝福した。その時の彼はこの都合をつけるために払うべく余儀なくされた物質上の犠牲をほとんど顧みる暇さえなかった。
 彼は夫人の姿を見るや否や、すぐ床の上に起き返ろうとした。夫人は立ちながら、それを止《と》めた。そうして彼女を案内した看護婦の両手に、抱えるようにして持たせた植木鉢《うえきばち》をちょっとふり返って見て、「どこへ置きましょう」と相談するように訊《き》いた。津田は看護婦の白い胸に映る紅葉《もみじ》の色を美くしく眺めた。小さい鉢の中で、窮屈そうに三本の幹が調子を揃《そろ》えて並んでいる下に、恰好《かっこう》の好い手頃な石さえあしらったその盆栽《ぼんさい》が床《とこ》の間《ま》の上に置かれた後で、夫人は始めて席に着いた。
「どうです」
 先刻《さっき》から彼女の様子を見ていた津田は、この時始めて彼に対する夫人の態度を確かめる事ができた。もしやと思って、暗《あん》に心配していた彼の掛念《けねん》の半分は、この一語《いちご》で吹き晴らされたと同じ事であった。夫人はいつもほど陽気ではなかった。その代りいつもほど上《うわ》っ調子《ちょうし》でもなかった。要するに彼女は、津田がいまだかつて彼女において発見しなかった一種の気分で、彼の室に入って来たらしかった。それは一方で彼女の落ちつきを極度に示していると共に、他方では彼女の鷹揚《おうよう》さをやはり最高度に現わすものらしく見えた。津田は少し驚ろかされた。しかし好い意味で驚ろかされただけに、気味も悪くしなければならなかった。たといこの態度が、彼に対する反感を代表していないにせよ、その奥には何があるか解らなかった。今その奥に恐るべき何物がないにしても、これから先話をしているうちに、向うの心持はどう変化して来るか解らなかった。津田は他《ひと》から機嫌《きげん》を取られつけている夫人の常として、手前勝手にいくらでも変って行く、もしくは変って行っても差支《さしつか》えないと自分で許している、この夫人を、一種の意味で、女性の暴君と奉《たてま》つらなければならない地位にあった。漢語でいうと彼女の一顰一笑《いっぴんいっしょう》が津田にはことごとく問題になった。この際の彼にはことにそうであった。
「今朝《けさ》秀子さんがいらしってね」
 お秀の訪問はまず第一の議事のごとくに彼女の口から投げ出された。津田は固《もと》より相手に応じなければならなかった。そうしてその応じ方は夫人の来ない前からもう考えていた。彼はお秀の夫人を尋ねた事を知って、知らない風をするつもりであった。誰から聴いたと問われた場合に、小林の名を出すのが厭《いや》だったからである。
「へえ、そうですか。平生あんまり御無沙汰《ごぶ
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