える事ができなかった。
「おれに調戯《からか》うため?」
それは何とも云えなかった。彼女は元来|他《ひと》に調戯う事の好《すき》な女であった。そうして二人の間柄《あいだがら》はその方面の自由を彼女に与えるに充分であった。その上彼女の地位は知らず知らずの間に今の彼女を放慢にした。彼を焦《じ》らす事から受け得られる単なる快感のために、遠慮の埒《らち》を平気で跨《また》ぐかも知れなかった。
「もしそうでないとしたら、……おれに対する同情のため? おれを贔負《ひいき》にし過ぎるため?」
それも何とも云えなかった。今までの彼女は実際彼に対して親切でもあり、また贔負にもしてくれた。
彼は広い通りへ来てそこから電車へ乗った。堀端《ほりばた》を沿うて走るその電車の窓硝子《まどガラス》の外には、黒い水と黒い土手と、それからその土手の上に蟠《わだか》まる黒い松の木が見えるだけであった。
車内の片隅《かたすみ》に席を取った彼は、窓を透《すか》してこのさむざむしい秋の夜《よ》の景色《けしき》にちょっと眼を注いだ後《あと》、すぐまたほかの事を考えなければならなかった。彼は面倒になって昨夕《ゆうべ》はそのままにしておいた金の工面《くめん》をどうかしなければならない位地《いち》にあった。彼はすぐまた吉川の細君の事を思い出した。
「先刻《さっき》事情を打ち明けてこっちから云い出しさえすれば訳はなかったのに」
そう思うと、自分が気を利《き》かしたつもりで、こう早く席を立って来てしまったのが残り惜しくなった。と云って、今さらその用事だけで、また彼女に会いに行く勇気は彼には全くなかった。
電車を下りて橋を渡る時、彼は暗い欄干《らんかん》の下に蹲踞《うずく》まる乞食《こじき》を見た。その乞食は動く黒い影のように彼の前に頭を下げた。彼は身に薄い外套《がいとう》を着けていた。季節からいうとむしろ早過ぎる瓦斯煖炉《ガスだんろ》の温かい※[#「(諂−言)+炎」、第3水準1−87−64]《ほのお》をもう見て来た。けれども乞食と彼との懸隔《けんかく》は今の彼の眼中にはほとんど入《はい》る余地がなかった。彼は窮した人のように感じた。父が例月の通り金を送ってくれないのが不都合に思われた。
十四
津田は同じ気分で自分の宅《うち》の門前まで歩いた。彼が玄関の格子《こうし》へ手を掛けようとすると、格子のまだ開《あ》かない先に、障子《しょうじ》の方がすうと開《あ》いた。そうしてお延の姿がいつの間にか彼の前に現われていた。彼は吃驚《びっくり》したように、薄化粧《うすげしょう》を施こした彼女の横顔を眺めた。
彼は結婚後こんな事でよく自分の細君から驚ろかされた。彼女の行為は時として夫の先《せん》を越すという悪い結果を生む代りに、時としては非常に気の利《き》いた証拠《しょうこ》をも挙《あ》げた。日常|瑣末《さまつ》の事件のうちに、よくこの特色を発揮する彼女の所作《しょさ》を、津田は時々自分の眼先にちらつく洋刀《ナイフ》の光のように眺める事があった。小さいながら冴《さ》えているという感じと共に、どこか気味の悪いという心持も起った。
咄嗟《とっさ》の場合津田はお延が何かの力で自分の帰りを予感したように思った。けれどもその訳を訊《き》く気にはならなかった。訳を訊いて笑いながらはぐらかされるのは、夫の敗北のように見えた。
彼は澄まして玄関から上へ上がった。そうしてすぐ着物を着換えた。茶の間の火鉢《ひばち》の前には黒塗の足のついた膳《ぜん》の上に布巾《ふきん》を掛けたのが、彼の帰りを待ち受けるごとくに据《す》えてあった。
「今日もどこかへ御廻り?」
津田が一定の時刻に宅《うち》へ帰らないと、お延はきっとこういう質問を掛けた。勢《いきお》い津田は何とか返事をしなければならなかった。しかしそう用事ばかりで遅くなるとも限らないので、時によると彼の答は変に曖昧《あいまい》なものになった。そんな場合の彼は、自分のために薄化粧をしたお延の顔をわざと見ないようにした。
「あてて見ましょうか」
「うん」
今日の津田はいかにも平気であった。
「吉川さんでしょう」
「よくあたるね」
「たいてい容子《ようす》で解りますわ」
「そうかね。もっとも昨夜《ゆうべ》吉川さんに話をしてから手術の日取をきめる事にしようって云ったんだから、あたる訳は訳だね」
「そんな事がなくったって、妾《あたし》あてるわ」
「そうか。偉いね」
津田は吉川の細君に頼んで来た要点だけをお延に伝えた。
「じゃいつから、その治療に取りかかるの」
「そういう訳だから、まあいつからでも構わないようなもんだけれども……」
津田の腹には、その治療にとりかかる前に、是非金の工面《くめん》をしなければならないという屈託《くったく》
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