があった。その額は無論大したものではなかった。しかし大した額でないだけに、これという簡便な調達方《ちょうだつかた》の胸に浮ばない彼を、なお焦《いら》つかせた。
 彼は神田にいる妹《いもと》の事をちょっと思い浮べて見たが、そこへ足を向ける気にはどうしてもなれなかった。彼が結婚後家計|膨脹《ぼうちょう》という名義の下《もと》に、毎月《まいげつ》の不足を、京都にいる父から填補《てんぽ》して貰《もら》う事になった一面には、盆暮《ぼんくれ》の賞与で、その何分《なんぶん》かを返済するという条件があった。彼はいろいろの事情から、この夏その条件を履行《りこう》しなかったために、彼の父はすでに感情を害していた。それを知っている妹はまた大体の上においてむしろ父の同情者であった。妹の夫の手前、金の問題などを彼女の前に持ち出すのを最初から屑《いさぎ》よしとしなかった彼は、この事情のために、なおさら堅くなった。彼はやむをえなければ、お延の忠告通り、もう一返父に手紙を出して事情を訴えるよりほかに仕方がないと思った。それには今の病気を、少し手重《ておも》に書くのが得策だろうとも考えた。父母《ふぼ》に心配をかけない程度で、実際の事実に多少の光沢《つや》を着けるくらいの事は、良心の苦痛を忍ばないで誰にでもできる手加減であった。
「お延|昨夜《ゆうべ》お前の云った通りもう一遍御父さんに手紙を出そうよ」
「そう。でも……」
 お延は「でも」と云ったなり津田を見た。津田は構わず二階へ上《あが》って机の前に坐った。

        十五

 西洋流のレターペーパーを使いつけた彼は、机の抽斗《ひきだし》からラヴェンダー色の紙と封筒とを取り出して、その紙の上へ万年筆で何心なく二三行書きかけた時、ふと気がついた。彼の父は洋筆《ペン》や万年筆でだらしなく綴《つづ》られた言文一致の手紙などを、自分の伜《せがれ》から受け取る事は平生《ひごろ》からあまり喜こんでいなかった。彼は遠くにいる父の顔を眼の前に思い浮べながら、苦笑して筆を擱《お》いた。手紙を書いてやったところでとうてい効能《ききめ》はあるまいという気が続いて起った。彼は木炭紙に似たざらつく厚い紙の余りへ、山羊髯《やぎひげ》を生やした細面《ほそおもて》の父の顔をいたずらにスケッチして、どうしようかと考えた。
 やがて彼は決心して立ち上った。襖《ふすま》を開けて、二階の上《あが》り口《ぐち》の所に出て、そこから下にいる細君を呼んだ。
「お延お前の所に日本の巻紙と状袋があるかね。あるならちょいとお貸し」
「日本の?」
 細君の耳にはこの形容詞が変に滑稽《こっけい》に聞こえた。
「女のならあるわ」
 津田はまた自分の前に粋《いき》な模様入の半切《はんきれ》を拡《ひろ》げて見た。
「これなら気に入るかしら」
「中さえよく解るように書いて上げたら紙なんかどうでもよかないの」
「そうは行かないよ。御父さんはあれでなかなかむずかしいんだからね」
 津田は真面目《まじめ》な顔をしてなお半切を見つめていた。お延の口元には薄笑いの影が差《さ》した。
「時《とき》をちょいと買わせにやりましょうか」
「うん」
 津田は生返事《なまへんじ》をした。白い巻紙と無地の封筒さえあれば、必ず自分の希望が成功するという訳にも行かなかった。
「待っていらっしゃい。じきだから」
 お延はすぐ下へ降りた。やがて潜《くぐ》り戸《ど》が開《あ》いて下女の外へ出る足音が聞こえた。津田は必要の品物が自分の手に入るまで、何もせずに、ただ机の前に坐って煙草《たばこ》を吹かした。
 彼の頭は勢い彼の父を離れなかった。東京に生れて東京に育ったその父は、何ぞというとすぐ上方《かみがた》の悪口《わるくち》を云いたがる癖に、いつか永住の目的をもって京都に落ちついてしまった。彼がその土地を余り好まない母に同情して多少不賛成の意を洩《も》らした時、父は自分で買った土地と自分が建てた家とを彼に示して、「これをどうする気か」と云った。今よりもまだ年の若かった彼は、父の言葉の意味さえよく解らなかった。所置はどうでもできるのにと思った。父は時々彼に向って、「誰のためでもない、みんな御前のためだ」と云った。「今はそのありがた味《み》が解らないかも知れないが、おれが死んで見ろ、きっと解る時が来るから」とも云った。彼は頭の中で父の言葉と、その言葉を口にする時の父の態度とを描き出した。子供の未来の幸福を一手《いって》に引き受けたような自信に充《み》ちたその様子が、近づくべからざる予言者のように、彼には見えた。彼は想像の眼で見る父に向って云いたくなった。
「御父さんが死んだ後《あと》で、一度に御父さんのありがた味が解るよりも、お父さんが生きているうちから、毎月《まいげつ》正確にお父さんのありがた味が少しずつ
前へ 次へ
全187ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング