、そこは彼女にもまるで解らなかった。
「いつだって構やしないんでしょう。繰合《くりあわ》せさえつけば」
 彼女はさも無雑作《むぞうさ》な口ぶりで津田に好意を表してくれた。
「無論繰合せはつくようにしておいたんですが……」
「じゃ好いじゃありませんか。明日《あした》から休んだって」
「でもちょっと伺った上でないと」
「じゃ帰ったら私からよく話しておきましょう。心配する事も何にもないわ」
 細君は快よく引き受けた。あたかも自分が他《ひと》のために働らいてやる用事がまた一つできたのを喜こぶようにも見えた。津田はこの機嫌《きげん》のいい、そして同情のある夫人を自分の前に見るのが嬉《うれ》しかった。自分の態度なり所作《しょさ》なりが原動力になって、相手をそうさせたのだという自覚が彼をなおさら嬉しくした。
 彼はある意味において、この細君から子供扱いにされるのを好《す》いていた。それは子供扱いにされるために二人の間に起る一種の親しみを自分が握る事ができたからである。そうしてその親しみをよくよく立ち割って見ると、やはり男女両性の間にしか起り得ない特殊な親しみであった。例えて云うと、或人が茶屋女などに突然背中を打《ど》やされた刹那《せつな》に受ける快感に近い或物であった。
 同時に彼は吉川の細君などがどうしても子供扱いにする事のできない自己を裕《ゆたか》にもっていた。彼はその自己をわざと押《お》し蔵《かく》して細君の前に立つ用意を忘れなかった。かくして彼は心置なく細君から嬲《なぶ》られる時の軽い感じを前に受けながら、背後はいつでも自分の築いた厚い重い壁に倚《よ》りかかっていた。
 彼が用事を済まして椅子《いす》を離れようとした時、細君は突然口を開《ひら》いた。
「また子供のように泣いたり唸《うな》ったりしちゃいけませんよ。大きな体《なり》をして」
 津田は思わず去年の苦痛を思い出した。
「あの時は実際弱りました。唐紙《からかみ》の開閉《あけたて》が局部に応《こた》えて、そのたんびにぴくんぴくんと身体《からだ》全体が寝床《ねどこ》の上で飛び上ったくらいなんですから。しかし今度《こんだ》は大丈夫です」
「そう? 誰が受合ってくれたの。何だか解ったもんじゃないわね。あんまり口幅《くちはば》ったい事をおっしゃると、見届けに行きますよ」
「あなたに見舞《みまい》に来ていただけるような所じゃありません。狭くって汚なくって変な部屋なんですから」
「いっこう構わないわ」
 細君の様子は本気なのか調戯《からか》うのかちょっと要領を得なかった。医者の専門が、自分の病気以外の或方面に属するので、婦人などはあまりそこへ近づかない方がいいと云おうとした津田は、少し口籠《くちごも》って躊躇《ちゅうちょ》した。細君は虚に乗じて肉薄した。
「行きますよ、少しあなたに話す事があるから。お延さんの前じゃ話しにくい事なんだから」
「じゃそのうちまた私の方から伺います」
 細君は逃げるようにして立った津田を、笑い声と共に応接間から送り出した。

        十三

 往来へ出た津田の足はしだいに吉川の家を遠ざかった。けれども彼の頭は彼の足ほど早く今までいた応接間を離れる訳に行かなかった。彼は比較的人通りの少ない宵闇《よいやみ》の町を歩きながら、やはり明るい室内の光景をちらちら見た。
 冷たそうに燦《ぎら》つく肌合《はだあい》の七宝《しっぽう》製の花瓶《かびん》、その花瓶の滑《なめ》らかな表面に流れる華麗《はなやか》な模様の色、卓上に運ばれた銀きせの丸盆、同じ色の角砂糖入と牛乳入、蒼黒《あおぐろ》い地《じ》の中に茶の唐草《からくさ》模様を浮かした重そうな窓掛、三隅《みすみ》に金箔《きんぱく》を置いた装飾用のアルバム、――こういうものの強い刺戟《しげき》が、すでに明るい電灯の下《もと》を去って、暗い戸外へ出た彼の眼の中を不秩序に往来した。
 彼は無論この渦《うず》まく色の中に坐っている女主人公の幻影を忘れる事ができなかった。彼は歩きながら先刻《さっき》彼女と取り換わせた会話を、ぽつりぽつり思い出した。そうしてその或部分に来ると、あたかも炒豆《いりまめ》を口に入れた人のように、咀嚼《そしゃく》しつつ味わった。
「あの細君はことによると、まだあの事件について、おれに何か話をする気かも知れない。その話を実はおれは聞きたくないのだ。しかしまた非常に聞きたいのだ」
 彼はこの矛盾した両面を自分の胸の中《うち》で自分に公言した時、たちまちわが弱点を曝露《ばくろ》した人のように、暗い路の上で赤面した。彼はその赤面を通り抜けるために、わざとすぐ先へ出た。
「もしあの細君があの事件についておれに何か云い出す気があるとすると、その主意ははたしてどこにあるだろう」
 今の津田はけっしてこの問題に解決を与
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