実を云うと彼女はこの夫人をあまり好いていなかった。向うでもこっちを嫌《きら》っているように思えた。しかも最初先方から自分を嫌い始めたために、この不愉快な現象が二人の間に起ったのだという朧気《おぼろげ》な理由さえあった。自分が嫌われるべき何らのきっかけも与えないのに、向うで嫌い始めたのだという自信も伴《ともな》っていた。先刻《さっき》双眼鏡を向けられた時、すでに挨拶《あいさつ》に行かなければならないと気のついた彼女は、即座にそれを断行する勇気を起し得なかったので、内心の不安を質問の形に引き直して叔母に相談しかけながら、腹の中では、その義務を容易《たやす》く果させるために、叔母が自分と連れ立って、夫人の所へ行ってくれはしまいかと暗《あん》に願っていた。
叔母はすぐ返事をした。
「ああ行った方がいいよ。行っといでよ」
「でも今いらっしゃらないから」
「なにきっと廊下にでも出ておいでなんだよ。行けば分るよ」
「でも、――じゃ行くから叔母さんもいっしょにいらっしゃいな」
「叔母さんは――」
「いらっしゃらない?」
「行ってもいいがね。どうせ今に御飯を食べる時に、いっしょになるはずになってるんだから、御免蒙《ごめんこうむ》ってその時にしようかと思ってるのよ」
「あらそんなお約束があるの。あたしちっとも知らなかったわ。誰と誰がいっしょに御飯を召上《めしや》がるの」
「みんなよ」
「あたしも?」
「ああ」
意外の感に打たれたお延は、しばらくしてから答えた。
「そんならあたしもその時にするわ」
五十
岡本の来たのはそれから間もなくであった。茶屋の男に開けて貰《もら》った戸の隙間《すきま》から中を覗《のぞ》いた彼は、おいでおいでをして百合子を廊下へ呼び出した。そこで二人がみんなの邪魔にならないような小声の立談《たちばなし》を、二言三言取り換わした後で、百合子は約束通り男に送られてすぐ場外へ出た。そうして入れ代りに入って来た彼がその後《あと》へ窮屈そうに坐った。こんな場所ではちょっと身体《からだ》の位置を変《かえ》るのさえ臆劫《おっくう》そうに見える肥満な彼は、坐ってしまってからふと気のついたように、半分ばかり背後《うしろ》を向いた。
「お延、代ってやろうか。あんまり大きいのが前を塞《ふさ》いで邪魔だろう」
一夜作《いちやづく》りの山が急に出来上ったような心持のしたお延は、舞台へ気を取られている四辺《あたり》へ遠慮して動かなかった。毛織ものを肌へ着けた例《ためし》のない岡本は、毛だらけな腕を組んで、これもおつき合《あい》だと云った風に、みんなの見ている方角へ視線を向けた。そこでは色の生《なま》っ白《ちろ》い変な男が柳の下をうろうろしていた。荒い縞《しま》の着物をぞろりと着流して、博多《はかた》の帯をわざと下の方へ締《し》めたその色男は、素足に雪駄《せった》を穿《は》いているので、歩くたびにちゃらちゃらいう不愉快な音を岡本の耳に響かせた。彼は柳の傍《そば》にある橋と、橋の向うに並んでいる土蔵の白壁を見廻して、それからそのついでに観客の方へ眼を移した。然《しか》るに観客の顔はことごとく緊張していた。雪駄をちゃらちゃら鳴らして舞台の上を往ったり来たりするこの若い男の運動に、非常な重大の意味でもあるように、満場は静まり返って、咳《せき》一つするものがなかった。急に表から入って来た彼にとって、すぐこの特殊な空気に感染する事が困難であったのか、また馬鹿らしかったのか、しばらくすると彼はまた窮屈そうに半分|後《うしろ》を向いて、小声でお延に話しかけた。
「どうだ面白いかね。――由雄さんはどうだ。――」
簡単な質問を次から次へと三つ四つかけて、一口ずつの返事をお延から受け取った彼は、最後に意味ありげな眼をしてさらに訊《き》いた。
「今日はどうだったい。由雄さんが何とか云やしなかったかね。おおかたぐずぐず云ったんだろう。おれが病気で寝ているのに貴様一人|芝居《しばや》へ行くなんて不埒千万《ふらちせんばん》だとか何とか。え? きっとそうだろう」
「不埒千万だなんて、そんな事云やしないわ」
「でも何か云われたろう。岡本は不都合な奴だぐらい云われたに違あるまい。電話の様子がどうも変だったぜ」
小声でさえ話をするものが周囲《あたり》に一人もない所で、自分だけ長い受け答をするのはきまりが悪かったので、お延はただ微笑していた。
「構わないよ。叔父さんが後で話をしてやるから、そんな事は心配しないでもいいよ」
「あたし心配なんかしちゃいないわ」
「そうか、それでも少しゃ気がかりだろう。結婚早々旦那様の御機嫌《ごきげん》を損じちゃ」
「大丈夫よ。御機嫌なんか損じちゃいないって云うのに」
お延は煩《うる》さそうに眉《まゆ》を動かした。面白半分|調戯《か
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