らか》って見た岡本は少し真面目《まじめ》になった。
「実は今日お前を呼んだのはね、ただ芝居《しばや》を見せるためばかりじゃない、少し呼ぶ必要があったんだよ。それで由雄さんが病気のところを無理に来て貰ったような訳だが、その訳さえ由雄さんに後から話しておけば何でもない事さ。叔父さんがよく話しておくよ」
 お延の眼は急に舞台を離れた。
「理由《わけ》っていったい何」
「今ここじゃ話し悪《にく》いがね。いずれ後で話すよ」
 お延は黙るよりほかに仕方なかった。岡本はつけ足すように云った。
「今日は吉川さんといっしょに食堂で晩食《ばんめし》を食べる事になってるんだよ。知ってるかね。そら吉川もあすこへ来ているだろう」
 先刻《さっき》まで眼につかなかった吉川の姿がすぐお延の眼に入った。
「叔父さんといっしょに来たんだよ。倶楽部《クラブ》から」
 二人の会話はそこで途切《とぎ》れた。お延はまた真面目に舞台の方を見出した。しかし十分|経《た》つか経たないうちに、彼女の注意がまたそっと後《うしろ》の戸を開ける茶屋の男によって乱された。男は叔母に何か耳語《ささや》いた。叔母はすぐ叔父の方へ顔を寄せた。
「あのね吉川さんから、食事の用意を致させておきましたから、この次の幕間《まくあい》にどうぞ食堂へおいで下さいますようにって」
 叔父はすぐ返事を伝えさせた。
「承知しました」
 男はまた戸をそっと閉《た》てて出て行った。これから何が始まるのだろうかと思ったお延は、黙って会食の時間を待った。

        五十一

 彼女が叔父叔母の後《あと》に随《つ》いて、継子といっしょに、二階の片隅《かたすみ》にある奥行の深い食堂に入るべく席を立ったのは、それから小一時間|後《のち》であった。彼女は自分と肩を並べて、すれすれに廊下を歩いて行く従妹《いとこ》に小声で訊《き》いて見た。
「いったいこれから何が始まるの」
「知らないわ」
 継子は下を向いて答えた。
「ただ御飯を食べるぎりなの」
「そうなんでしょう」
 訊《き》こうとすれば訊こうとするほど、継子の返事が曖昧《あいまい》になってくるように思われたので、お延はそれぎり口を閉じた。継子は前に行く父母《ちちはは》に遠慮があるのかも知れなかった。また自分は何《なん》にも承知していないのかも分らなかった。あるいは承知していても、お延に話したくないので、わざと短かい返事を小さな声で与えないとも限らなかった。
 鋭い一瞥《いちべつ》の注意を彼らの上に払って行きがちな、廊下で出逢《であ》う多数の人々は、みんなお延よりも継子の方に余分の視線を向けた。忽然《こつぜん》お延の頭に彼女と自分との比較が閃《ひら》めいた。姿恰好《すがたかっこう》は継子に立《た》ち優《まさ》っていても、服装《なり》や顔形《かおかたち》で是非ひけを取らなければならなかった彼女は、いつまでも子供らしく羞恥《はにか》んでいるような、またどこまでも気苦労のなさそうに初々《ういうい》しく出来上った、処女としては水の滴《した》たるばかりの、この従妹《いとこ》を軽い嫉妬《しっと》の眼で視《み》た。そこにはたとい気の毒だという侮蔑《ぶべつ》の意《こころ》が全く打ち消されていないにしたところで、ちょっと彼我《ひが》の地位を易《か》えて立って見たいぐらいな羨望《せんぼう》の念が、著《いちじ》るしく働らいていた。お延は考えた。
「処女であった頃、自分にもかつてこんなお嬢さんらしい時期があったろうか」
 幸か不幸か彼女はその時期を思い出す事ができなかった。平生継子を標準《めやす》におかないで、何とも思わずに暮していた彼女は、今その従妹と肩を並べながら、賑《にぎ》やかな電灯で明るく照らされた廊下の上に立って、またかつて感じた事のない一種の哀愁《あいしゅう》に打たれた。それは軽いものであった。しかし涙に変化しやすい性質《たち》のものであった。そうして今|嫉妬《しっと》の眼で眺めたばかりの相手の手を、固く握り締《し》めたくなるような種類のものであった。彼女は心の中で継子に云った。
「あなたは私より純潔です。私が羨《うら》やましがるほど純潔です。けれどもあなたの純潔は、あなたの未来の夫に対して、何の役にも立たない武器に過ぎません。私のように手落なく仕向けてすら夫は、けっしてこっちの思う通りに感謝してくれるものではありません。あなたは今に夫の愛を繋《つな》ぐために、その貴《たっと》い純潔な生地《きじ》を失わなければならないのです。それだけの犠牲を払って夫のために尽してすら、夫はことによるとあなたに辛《つら》くあたるかも知れません。私はあなたが羨《うらや》ましいと同時に、あなたがお気の毒です。近いうちに破壊しなければならない貴い宝物を、あなたはそれと心づかずに、無邪気にもっているから
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