し、由雄が病気でなくって、あたしといっしょに来たらどうするの」
「その時はその時で、またどうかするつもりなんでしょう。もう一間《いっけん》取るとか、それでなければ、吉川さんの方といっしょになるとか」
「吉川さんとも前から約束があったの?」
「ええ」
継子はその後を云わなかった。岡本と吉川の家庭がそれほど接近しているとも考えていなかったお延は、そこに何か意味があるのではないかと、ちょっと不審を打って見たが、時間に余裕のある人の間に起りがちな、単に娯楽のための約束として、それを眺める余地も充分あるので、彼女はついに何にも訊《き》かなかった。二人の話はただ吉川夫人の双眼鏡に触れただけであった。お延はわざと手真似《てまね》までして見せた。
「こうやって真《ま》ともに向けるんだから、敵《かな》わないわね」
「ずいぶん無遠慮でしょう。だけど、あれ西洋風なんだって、宅《うち》のお父さまがそうおっしゃってよ」
「あら西洋じゃ構わないの。じゃあたしの方でも奥さんの顔をああやってつけつけ見ても好い訳ね。あたし見て上げようかしら」
「見て御覧なさい、きっと嬉《うれ》しがってよ。延子さんはハイカラだって」
二人が声を出して笑い合っている傍《そば》に、どこからか来た一人の若い男がちょっと立ちどまった。無地の羽織に友縫《ともぬい》の紋《もん》を付けて、セルの行灯袴《あんどんばかま》を穿《は》いたその青年紳士は、彼らと顔を見合せるや否や、「失礼」と挨拶《あいさつ》でもして通り過ぎるように、鄭重《ていちょう》な態度を無言のうちに示して、板敷へ下りて向うへ行った。継子は赧《あか》くなった。
「もう這入《はい》りましょうよ」
彼女はすぐお延を促《うな》がして内へ入った。
四十九
場中《じょうちゅう》の様子は先刻《さっき》見た時と何の変りもなかった。土間を歩く男女《なんにょ》の姿が、まるで人の頭の上を渡っているように煩《わず》らわしく眺《なが》められた。できるだけ多くの注意を惹《ひ》こうとする浮誇《ふこ》の活動さえ至る所に出現した。そうして次の色彩に席を譲るべくすぐ消滅した。眼中の小世界はただ動揺であった、乱雑であった、そうしていつでも粉飾《ふんしょく》であった。
比較的静かな舞台《ぶたい》の裏側では、道具方の使う金槌《かなづち》の音が、一般の予期を唆《そそ》るべく、折々場内へ響き渡った。合間合間には幕の後《うしろ》で拍子木《ひょうしぎ》を打つ音が、攪《か》き廻《まわ》された注意を一点に纏《まと》めようとする警柝《けいたく》の如《よう》に聞こえた。
不思議なのは観客であった。何もする事のないこの長い幕間《まくあい》を、少しの不平も云わず、かつて退屈の色も見せず、さも太平らしく、空疎な腹に散漫な刺戟《しげき》を盛って、他愛《たわい》なく時間のために流されていた。彼らは穏和《おだや》かであった。彼らは楽しそうに見えた。お互の吐《は》く呼息《いき》に酔っ払った彼らは、少し醒《さ》めかけると、すぐ眼を転じて誰かの顔を眺めた。そうしてすぐそこに陶然たる或物を認めた。すぐ相手の気分に同化する事ができた。
席に戻った二人は愉快らしく四辺《あたり》を見廻した。それから申し合せたように問題の吉川夫人の方を見た。婦人の双眼鏡はもう彼らを覘《ねら》っていなかった。その代り双眼鏡の主人もどこかへ行ってしまった。
「あらいらっしゃらないわ」
「本当ね」
「あたし探《さが》してあげましょうか」
百合子はすぐ自分の手に持ったこっちのオペラグラスを眼へ宛《あ》てがった。
「いない、いない、どこかへ行っちまった。あの奥さんなら二人前《ににんまえ》ぐらい肥《ふと》ってるんだから、すぐ分るはずだけれども、やっぱりいないわよ」
そう云いながら百合子は象牙の眼鏡を下へ置いた。綺麗《きれい》な友染模様《ゆうぜんもよう》の背中が隠れるほど、帯を高く背負《しょ》った令嬢としては、言葉が少しもよそゆきでないので、姉はおかしさを堪《こら》えるような口元に、年上らしい威厳を示して、妹を窘《たし》なめた。
「百合子さん」
妹は少しも応《こた》えなかった。例の通りちょっと小鼻を膨《ふく》らませて、それがどうしたんだといった風の表情をしながら、わざと継子を見た。
「あたしもう帰りたくなったわ。早くお父さまが来てくれると好いんだけどな」
「帰りたければお帰りよ。お父さまがいらっしゃらなくっても構わないから」
「でもいるわ」
百合子はやはり動かなかった。子供でなくってはふるまいにくいこの腕白らしい態度の傍《かたわら》に、お延が年相応の分別《ふんべつ》を出して叔母に向った。
「あたしちょっと行って吉川さんの奥さんに御挨拶《ごあいさつ》をして来ましょうか。澄《す》ましていちゃ悪いわね」
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