、作物に対する好悪《こうお》の念が作家にうつって行く。なおひろがって作家自身の好悪となり、結局道徳的の問題となる。それ故《ゆえ》当然作物からのみ得られべき感情が作家に及ぼして、しまいには justice という事がなくなって、贔負《ひいき》というものが出来る。芸人にはこの贔負が特に甚だしい。相撲《すもう》なんかそれです。私の友人に相撲のすきな人があるが、この人は勝った方がすきだと申します。この人なんか正義の人で、公平で、決して贔負ではない。贔負になるとこんな事が出来ない。かく芸を離れて当人になってくるのは角力《すもう》か役者に多い。作物になるとさほどでもないようにも見える。
 これほどまでに芸術とか文芸とかいうものは personal である。personal であるから自己に重きを置く。自己がなくなったら personal でなくなるのはあたり前であるが、その自己がなくなれば芸術は駄目である。
 あなた方に尊ぶことは、自己でなくして腕である。腕さえあれば能事《のうじ》了《おわ》れりというてもよい。工場では人間がいらないほどあっても、その人間は機械の一部分のようなものである。mecha
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