いるともとれるし、そうでなくて己《おのれ》は自分が生きているんで、親はこの己を生むための方便だ、自分が消えると気の毒だから、子に伝えてやる、という事に考えても差支《さしつかえ》ない。この論法からいうと、芸術家が昔の芸術を後世に伝えるために生きているというのも、不見識《ふけんしき》ではあるが、やっぱり必要でしょう。ことに旧《きゅう》芝居や御能《おのう》なんかはいい例です。絵画にもそれがある。私は狩野元信《かのうもとのぶ》のために生きているので、決して私のためには生きているのではないと看板をかける人もたくさんある。こういうのは身を殺して仁《じん》をなすというものでしょう。しかし personality の論法で行くと、これは問題にならない。こんな人はとりのけて、ほんとに自覚したらどうだろう。即ち personality から出立《しゅったつ》しようとする、狩野のために生きるのをよして自分のために生きようとする事にしたらどうだろう。世の中には全く同じ事は決して再び起らない。science ではどうだか知らないけれども、精神界では全く同じものが二つは来ない。故にいくら旧様《きゅうよう》を守ろう
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