ない art を弄《ろう》している事がたくさんある。即ちねむいのに、睡くないようなふりをするなどはその一例です。かく art は恐ろしい。われわれにとっては art は二の次《つぎ》で、人格が第一なのです。孔子様《こうしさま》でなければ人格がない、なんていうのじゃない。人格といったってえらいという事でもなければ、偉くないという事でもない。個人の思想なり観念なりを中心として考えるということである。
一口にいえば、文芸家の仕事の本体即ち essence は人間であって、他のものは附属品装飾品である。
この見地より世の中を見わたせば面白いものです。こういうのは私一人かも知れませんが、世の中は自分を中心としなければいけない。尤《もっと》も私は親が生んだので、親はまたその親が生んだのですから、私は唯一人でぽつりと木の股《また》から生れた訳ではない。そこでこういう問題が出て来る。人間は自分を通じて先祖を後世《こうせい》に伝える方便として生きているのか、または自分その者を後世に伝えるために生きているのか。これはどっちでもいい事ですけれども、とりようでは二様にとれる。親が死んだからその代理に生きて
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