まで屋根の下に寝た事は一度もなかったそうである。あるときは水の溜《たま》った溝《みぞ》の中に腰から下を濡《ぬ》らして何時間でも唇《くちびる》の色を変えて竦《すく》んでいた。食事は鉄砲を打たない時を見計《みはから》って、いつでも構わず口中に運んだ。その食事さえ雨が降って車の輪が泥の中に埋《うま》って、馬の力ではどうしても運搬《うんぱん》ができなかった事もある。今あんな真似《まね》をすれば一週間|経《た》たないうちに大病人になるにきまっていますが、医者に聞いて見ると、戦争のときは身体《からだ》の組織《そしょく》がしばらくの間に変って、全く犬や猫と同様になるんだそうですと笑っていた。市川君は今旅順の巡査部長を勤めている。
二十八
旅順の港は袋の口を括《くく》ったように狭くなって外洋に続いている。袋の中はいつ見ても油を注《さ》したと思われるほど平らかである。始めてこの色を遠くから眺めたときは嬉しかった。しかし水の光が強く照り返して、湾内がただ一枚に堅く見えたので、あの上を舟で漕《こ》ぎ廻って見たいと云う気は少しも起らなかった。魚を捕《と》る料簡《りょうけん》は無論無かった
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