がね》を出してこっちを眺めているのもあった。けれども見るうちに眼鏡は不必要になった。髪の色も眼鼻立《めはなだち》も甲板に立っている人は御互に鮮《あざや》かな顔を見合せるほど船は近くなった。その時は全く美しかった。と思うと、船は今までよりも倍以上の速力を鼓《こ》して刹那《せつな》に近寄り始めた。海の水を細い谷川のように仕切って、営口丸の船体が、六尺ほどの眼の前に黒く切っ立った時は、ああ打《ぶ》つかるなと思った。途端《とたん》に向うの舳《へさき》は余の眼を掠《かす》めて過ぎ去りつつ、逼《せま》りつつ、とうとう中等甲板の角《かど》の所まで行ってどさりと当った。同時に甲板の上に釣るしてあった端艇《ボート》が二|艘《そう》ほどでんぐり返った。端艇を繋《つな》いであった鉄の棒は無雑作《むぞうさ》に曲った。営口丸の船員は手を拍《う》ってわあと囃《はや》し立《た》てた。余と並んで立っていた異人が、妙な声を出してダム何とか云った。
 一時間の後《のち》佐治さんがやって来て、夏目さん身をかわす[#「かわす」に傍点]のかわす[#「かわす」に傍点]と云う字はどう書いたら好いでしょうと聞くから、そうですねと云っ
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