ちながら返事をしている。何だか様子が変になって来た。やがて余はこの紺服の人に紹介された。紹介されて見ると、これは商業学校出の谷村君で、無論|旅屋《やどや》の亭主ではなかった。谷村君はこの地で支那人と組んで豆の商売を営んでいる。したがって取引上の必要があって、奥の方から大連へ出て来る豆の荷主《にぬし》と接触しなければならないのだが、こっちの習慣として、こう云う荷主はけっして普通の旅籠《はたご》を取らない。出て来ればきっと取引先へ宿《とま》って、用の済むまではいつまででもそこに滞在している。しかもその数は一人や二人ではない。したがって谷村君の奥座敷は一種の宿屋みたような組織にできている。
 じゃその奥座敷をちょっと拝見できますかと云うと、谷村君はさあさあと自分から席を離れて、快よく案内に立たれる。余は谷村君の後《うしろ》へ追《つ》いて事務室の裏へ出た。股野も食付《くっつ》いて出た。裏は真四角な庭になっている。無論|樹《き》も草も花も見当らない、ただの平たい場所である。そこを突き抜けた正面の座敷が応接間であった。応接間の入口は低い板間《いたま》で、突当りの高い所に蒲団《ふとん》が敷いてある。
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