に入って飯を食っていると、突然この顔に出食《でっく》わして一驚《いっきょう》を喫《きっ》した。固《もと》より犬の食堂じゃないんだけれども、犬の方で間違えて這入《はい》って来たものと見える。もっとも彼の主人もその時食堂にいた。主人は多数の人間のいるところで、犬と高声に談判するのを非紳士的と考えたと見えて、いきなりかの妙な顔を胴ぐるみ脇《わき》の下に抱《かか》えて食堂の外に出て行った。その退却の模様はすこぶる優美であった。彼は重い犬をあたかも風呂敷包《ふろしきづつみ》のごとく安々と小脇に抱えて、多くの人の並んでいる食卓の間を、足音も立てず大股《おおまた》に歩んで戸の外に身体《からだ》を隠した。その時犬はわんとも云わなかった。ぐうとも云わなかった。あたかも弾力ある暖かい器械の、素直《すなお》に自然の力に従うように、おとなしく抱かれて行った。顔はたびたび云う通りはなはだ妙だが、行状《ぎょうじょう》に至ってはすこぶる気高いものであった。余はその後《ご》ついにこの犬に逢う機会を得なかった。
三
退屈だから甲板《かんぱん》に出て向うを見ると、晴れたとも曇ったとも方《かた》のつか
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