、規則のごとく毎晩食ったからである。汁粉屋は門前まで来た合図に、きっと団扇《うちわ》をばたばたと鳴らした。そのばたばた云う音を聞くと、どうしても汁粉を食わずにはいられなかった。したがって、余はこの汁粉屋の爺《おやじ》のために盲腸炎にされたと同然である。
その後《のち》左五《さご》は――当時余等は橋本を呼んで、左五左五と云っていた。実際彼は岡山の農家の生れであった。――左五はその後追試験に及第したにはしたが、するかと思うとまた落第した。そうして、何だ下らないと云って北海道へ行って農学校へ這入《はい》ってしまった。それから独逸《ドイツ》へ行った。独逸へ行って、いつまで経《た》っても帰らない。とうとう五年か六年かいた。つまり留学期限の倍か倍以上も向うで暮した事になる、その費用はどうして拵えたものかとんと分らない。
この橋本が不思議にも余より二三月前に満鉄の依頼に応じて、蒙古《もうこ》の畜産事状を調査に来て、その調査が済んで今大連に帰ったばかりのところへ出っ食わしたのである。顔を見ると、昔から慓悍《ひょうかん》の相《そう》があったのだが、その慓悍が今蒙古と新しい関係がついたため、すこぶる活
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