けなければならない。ところがゼントルメン以外の英語があいにく一言《ひとこと》も出て来なかった。英語と云う英語は頭の底からことごとく酒で洗い去られてしまっているので、仕方なしに、急に日本語に鞍換《くらがえ》をして、ゼントルメンの次へもってきて、すぐ大いに飲みましょうと怒鳴《どな》った。ゼントルメン大いに飲みましょうは、たいていの亜米利加人《アメリカじん》に通じる訳のものではないが、そこがバーのバーたるところで、ゼントルメン大いに飲みましょうとやるや否や、士官連がわあっと云って主人公を胴上《どうあげ》にしたそうである。
 明治二十年の頃だったと思う。同じ下宿にごろごろしていた連中が七人ほど、江の島まで日着《ひづき》日帰《ひがえ》りの遠足をやった事がある。赤毛布《あかげっと》を背負《しょ》って弁当をぶら下げて、懐中にはおのおの二十銭ずつ持って、そうして夜の十時頃までかかって、ようやく江の島のこっち側《がわ》まで着いた事は着いたが、思い切って海を渡るものは誰もなかった。申し合せたように毛布《けっと》に包《くる》まって砂浜の上に寝た。夜中に眼が覚《さ》めると、ぽつりぽつりと雨が顔へあたっていた。
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