げて、この老人と別れた。
 表へ出るとアカシヤの葉が朗《ほが》らかな夜の空気の中にしんと落ちついて、人道を行く靴の音が向うから響いて来る。暗い所から白服を着けた西洋人が馬車で現れた。ホテルへ帰って行くのだろう。馬の蹄《ひづめ》は玄関の前で留まったらしい。是公の家の屋根から突出《つきだ》した細長い塔が、瑠璃色《るりいろ》の大空の一部分を黒く染抜いて、大連の初秋《はつあき》が、内地では見る事のできない深い色の奥に、数えるほどの星を輝《きら》つかせていた。

        七

 この間から米国の艦隊が四|艘《そう》来ているんで、毎日いろいろな事をして遊ばせるのだが、翌日《あす》の晩は舞踏会をやるはずになっているから出て見ろと是公《ぜこう》が勧めた。出て見ろったって、燕尾服《えんびふく》も何も持って来やしないから駄目《だめ》だよと断ると、是公が希知《けち》な奴《やつ》だなと云った。燕尾服は其上|倫敦《ロンドン》留学中トテナムコートロードの怪しげな洋服屋で、もっとも安い奴を拵《こしら》えた覚《おぼえ》があるが、爾来《じらい》箪笥《たんす》の底に深く蔵しているのみで、親友といえども、持ってるか
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