をしてくれる。あんまり不思議だから、全体何の御用事が御有りなのですかと、詮索《せんさく》がましからぬ程度に聞いて見ると、実は妻《さい》が病気でと云う返事である。さすが横着な両人も、この際だけは、それじゃ御迷惑でもせっかくだからついでにもう少し案内を願おうと云う気にもなれなかった。言葉は無論出なかった。長い日が山の途中で暮れて、電気の力を借りなければ人の顔が判然《はっきり》分らない頃になって、我々の馬車がようやく旧市街まで戻った時、中尉はある煉瓦塀《れんがべい》の所で、それじゃ私はここで失礼しますと挨拶《あいさつ》して、馬車から下りて、門の中へ急いで這入って行かれた。この煉瓦の塀を回《めぐ》らした一構《ひとかまえ》は病院であった。そうして中尉の妻君はこの病院の一室に寝ていたのである。
これほど世話になり、面倒を掛けた人の名前を忘れるのははなはだすまん事だが、どうしても思い出せない。佐藤に、よろしくと伝言を頼んだ時は、ただ、あの中尉君と書いた。ここに某中尉《ぼうちゅうい》などとよそよそしく取り扱うのはあまり失礼だから、やむをえずA君としておいた。
A君の親切に説明してくれた戦利品の一々を叙述したら、この陳列所だけの記載でも、二十枚や三十枚の紙数では足るまいと思うが、残念な事にたいてい忘れてしまった。しかしたった一つ覚えているものがある。それは女の穿《は》いた靴の片足である。地《じ》が繻子《しゅす》で、色は薄鼠《うすねずみ》であった。その他の手投弾《てなげだん》や、鉄条網や、魚形水雷や、偽造の大砲は、ただ単なる言葉になって、今は頭の底に判然《はっきり》残っていないが、この一足の靴だけは色と云い、形と云い、いつなん時《どき》でも意志の起り次第|鮮《あざやか》に思い浮べる事ができる。
戦争後ある露西亜《ロシア》の士官がこの陳列所一覧のためわざわざ旅順まで来た事がある。その時彼はこの靴を一目|観《み》て非常に驚いたそうだ。そうしてA君に、これは自分の妻の穿《は》いていたものであると云って聞かしたそうだ。この小さな白い華奢《きゃしゃ》な靴の所有者は、戦争の際に死んでしまったのか、またはいまだに生存しているものか、その点はつい聞き洩《も》らした。
二十四
今までは白馬《しろうま》を着けた佐藤の馬車に澄まして乗っていたが、山へかかるや否や、例の泥だらけの掘出しものの中へ放り込まれてしまった。とうてい普通の馬車では上がれないと云うんだからやむをえない。それでも露西亜人《ロシアじん》だけあって、眼にあまる山のことごとくに砲台を構えて、その砲台のことごとくに、馬車を駆《か》って頂辺《てっぺん》まで登れるような広い路《みち》をつけたのは感心ですとA君が語られる。実際その当時は奇麗《きれい》な馬車を傷《いた》めずに、心持よく砲台のある地点まで乗りつけられたものと見える。ところが戦争がすんで往復の必要がなくなったので、せっかくできた山路に手を入れる機会を失ったため、我々ごとき物数奇《ものずき》は、かように零落《れいらく》した馬車をさえ、時々復活させる始末になるのである。元来旅順ほど小山が四方《よも》に割拠《かっきょ》して、禿頭を炎天に曝《さら》し合《あ》っている所はない。樹《き》が乏しい土質《どしつ》へ、遠慮のない強雨《ごうう》がどっと突き通ると、傾斜の多い山路の側面が、すぐ往来へ崩《くず》れ出す。その崩れるものがけっして尋常の土じゃない。堅い石である。しかも頑固《がんこ》に角張《かどば》っている。ある所などは、五寸から一尺ほどもあろうと云う火打石のために、累々《るいるい》と往来を塞《ふさ》がれている。零落した馬車は容赦なく鳴動《めいどう》してその上を通るのだから、凸凹《でこぼこ》の多い川床《かわどこ》を渡るよりも危険である。二百三高地《にひゃくさんこうち》へ行く途中などでは、とうとうこの火打石に降参して、馬車から下りてしまった。そうして痛い腹を抱《かか》えながら、膏汗《あぶらあせ》になって歩いたくらいである。鶏冠山《けいかんざん》を下りるとき、馬の足掻《あがき》が何だか変になったので、気をつけて見ると、左の前足の爪の中に大きな石がいっぱいに詰《はま》っていた。よほど厚い石と見えて爪から余った先が一寸《いっすん》ほどもある。したがって馬は一寸がた跛《ちんば》を引いて車体を前へ運んで行く訳になる。席から首を延ばして、この様子を見た時は、安んじて車に乗っているのが気の毒なくらい、馬に対して痛わしい心持がした。御者《ぎょしゃ》に注意してやると、御者は支那語で何とか云いながら、鞭《むち》を棄《す》てて下へ下りたが、非常に固く詰《つま》っていたと見えて、叩《たた》いても引っ張っても石が取れないので、またのそのそ御者台へ上がった。そうして、
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