い段になった。いったい橋本といっしょにあるくときは、何でも橋本が進んで始末をつけてくれる事に昔からきまっているんだからこの際もどうかするだろうと思って放っておいた。すると予想通、日本流の宿屋へ行くつもりで来たんですがと渡辺さんに相談し始めた。ところが渡辺さんはどうも御泊りになられるような日本の宿屋は一軒もありませんから、やっぱり大和《やまと》ホテルになさった方が好いでしょうと忠告している。
 やがて馬車は新市街の方へ向いて動き出した。二人は十五分の後《のち》ホテルの二階に導かれて、行き通いのできる室《へや》を二つ並べて取った。そこで革鞄《かばん》の中から刷毛《はけ》を出して塵《ちり》だらけの服を払ったあとで、しばらく休息のため安楽椅子に腰をおろして見ると、急に気がついたように四辺《あたり》が森閑《しんかん》としている。ホテルの中には一人も客がいないように見える。ホテルの外にもいっさい人が住んでいるようには思われない。開廊《ヴェランダ》へ出て往来を眺めると、往来はだいぶ広い。手摺《てすり》の真下にある人道の石の中から草が生えて、茎の長さが一尺余りになったのが二三本見える。日中だけれども虫の音《ね》が微《かす》かに聞える。隣は主《ぬし》のない家と見えて、締《し》め切った門やら戸やらに蔦《つた》が一面に絡《から》んでいる。往来を隔てて向うを見ると、ホテルよりは広い赤煉瓦《あかれんが》の家が一棟《ひとむね》ある。けれども煉瓦が積んであるだけで屋根も葺《ふ》いてなければ窓硝子《まどガラス》もついてない。足場に使った材木さえ処々に残っているくらいの半建《はんだて》である。淋しい事には、工事を中止してから何年になるか知らないが、何年になってもこのままの姿で、とうてい変る事はあるまいと云う感じが起る。そうしてその感じが家にも往来にも、美しい空にも、一面に充《み》ちている。余は開廊の手摺を掌《てのひら》で抑えながら、奥にいる橋本に、淋《さび》しいなあと云った。旅順の港は鏡のごとく暗緑に光った。港を囲む山はことごとく坊主であった。
 まるで廃墟《ルインス》だと思いながら、また室の中に這入《はい》ると、寝床には雪のような敷布《シート》がかかっている。床《ゆか》には柔《やわら》かい絨毯《じゅうたん》が敷いてある。豊かな安楽椅子が据《す》えてある。器物はことごとく新式である。いっさいが整っている。外と内とは全く反対である。満鉄の経営にかかるこのホテルは、固《もと》より算盤《そろばん》を取っての儲《もう》け仕事でないと云う事を思い出すまでは、どうしても矛盾の念が頭を離れなかった。
 食堂に下りて、窓の外に簇《むら》がる草花の香《におい》を嗅《か》ぎながら、橋本と二人静かに午餐《ごさん》の卓に着いたときは、機会があったら、ここへ来て一夏気楽に暮したいと思った。

        二十三

 旅順に着いた時汽車の窓から首を出したら、つい鼻の先の山の上に、円柱のような高い塔が見えた。それがあまり高過ぎるので、肩から先を前の方へ突き出して、窮屈に仰向《あおむ》かなくては頂点《てっぺん》まで見上げる訳に行かなかった。
 馬車が新市街を通り越してまたこの塔の真下に出た時に、これが白玉山《はくぎょくざん》で、あの上の高い塔が表忠塔だと説明してくれた。よく見ると高い灯台のような恰好《かっこう》である。二百何尺とかと云う話であった。この山の麓《ふもと》を通り越して、旧市街を抜けると、また山路にかかる。その登り口を少し右へ這入《はい》った所に、戦利品陳列所がある。佐藤は第一番にそれを見せるつもりで両人《ふたり》を引張って来た。
 陳列所は固《もと》より山の上の一軒家で、その山には樹《き》と名のつくほどの青いものが一本も茂っていないのだから、はなはだ淋《さび》しい。当時の戦争に従事したと云う中尉のA君がただ独《ひと》り番をしている。この尉官は陳列所に幾十種となく並べてある戦利品について、一々|叮嚀《ていねい》に説明の労を取ってくれるのみならず、両人を鶏冠山《けいかんざん》の上まで連れて行って、草も木もない高い所から、遥《はるか》の麓を指さしながら、自分の従軍当時の実歴譚《じつれきだん》をことごとく語って聞かせてくれた人である。始め佐藤から砲台案内を依頼したときには、今日はちと差支《さしつか》えがあるから四時頃までならと云う条件であったが、山の出鼻へ立って洋剣《サーベル》を鞭《むち》の代りにして、あちらこちらと方角を教える段になると、肝心《かんじん》の要事はまるでそっちのけにして、満洲の赤い日が、向うの山の頂《いただき》に、大きくなって近づくまで帰ろうとは云わなかった。もし忘れたんじゃ気の毒だと思って、こっちから注意すると、何ようございます、構いませんと断りながら、ますます講釈
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