満韓ところどころ
夏目漱石
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)南満鉄道会社《なんまんてつどうかいしゃ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)二十四五年|前《ぜん》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「山+贊」、第4水準2−8−72]
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一
南満鉄道会社《なんまんてつどうかいしゃ》っていったい何をするんだいと真面目《まじめ》に聞いたら、満鉄《まんてつ》の総裁も少し呆《あき》れた顔をして、御前《おまえ》もよっぽど馬鹿だなあと云った。是公《ぜこう》から馬鹿と云われたって怖《こわ》くも何ともないから黙っていた。すると是公が笑いながら、どうだ今度《こんだ》いっしょに連れてってやろうかと云い出した。是公の連れて行ってやろうかは久しいもので、二十四五年|前《ぜん》、神田の小川亭《おがわてい》の前にあった怪しげな天麩羅屋《てんぷらや》へ連れて行ってくれた以来時々連れてってやろうかを余に向って繰返す癖がある。そのくせいまだ大した所へ連れて行ってくれた試《ためし》がない。「今度《こんだ》いっしょに連れてってやろうか」もおおかたその格《かく》だろうと思ってただうんと答えておいた。この気のない返事を聞いた総裁は、まあ海外における日本人がどんな事をしているか、ちっと見て来るがいい。御前みたように何にも知らないで高慢な顔をしていられては傍《はた》が迷惑するからとすこぶる適切めいた事を云う。何でも是公に聞いて見ると馬関《ばかん》や何かで我々の不必要と認めるほどの御茶代などを宿屋へ置くんだそうだから、是公といっしょに歩いて、この尨大《ぼうだい》な御茶代が宿屋の主人下女下男にどんな影響を生ずるかちょっと見たくなった。そこで、じゃ君の供をしてへいへい云って歩いて見たいなと注文をつけたら、そりゃどうでも構わない、いっしょが厭《いや》なら別でも差支《さしつか》えないと云う返事であった。
それから御供をするのはいつだろうかと思って、面白半分に待っていると、八月|半《なか》ばに使が来ていつでも立てる用意ができてるかと念を押した。立てると云えば立てるような身上《しんじょう》だから立てると答えた。するとまた十日ほどしていつ何日《いつか》の船で馬関から乗るが、好いかと云う手紙が来た。それも、ちゃんと心得た。次には用事ができたから一船《ひとふね》延ばすがどうだと云う便《たよ》りがあった。これも訳なく承知した。しかし承知している最中に、突然急性胃カタールでどっとやられてしまった。こうなるといかに約束を重んずる余も、出発までに全快するかしないか自分で保証し悪《にく》くなって来た。胸へ差し込みが来ると、約束どころじゃない。馬関も御茶代も、是公も大連もめちゃめちゃになってしまう。世界がただ真黒な塊《かたまり》に見えた。それでも御供旅行の好奇心はどこかに潜《ひそ》んでいたと見えて、先へ行ってくれと云う事は一口も是公に云わなかった。
そのうち胃のところがガスか何かでいっぱいになった。茶碗の音などを聞くと腹が立った。人間は何の必要があって飯などを食うのか気の知れない動物だ、こうして氷さえ噛《かじ》っていれば清浄潔白《しょうじょうけっぱく》で何も不足はないじゃないかと云う気になった。枕元《まくらもと》で人が何か云うと、話をしなくっちあ生きていられないおしゃべりほど情ない下賤《げせん》なものはあるまいと思った。眼を開いて本棚《ほんだな》を見渡すと書物がぎっしり詰っている。その書物が一々違った色をしてそうしてことごとく別々な名を持っている。煩《わずら》わしい事|夥《おびただ》しい。何の酔興《すいきょう》でこんな差別をつけたものだろう、また何の因果《いんが》でそれを大事そうに列《なら》べ立てたものだろう。実にしち面倒臭い世の中だ。早く死んじまえと云う気になった。
禎二《ていじ》さんが蒲団《ふとん》の横へ来て、どうですと尋ねたが、返事をするのが馬鹿気《ばかげ》ていて何とも云う了見《りょうけん》にならない。代診が来て、これじゃ旅行は無理ですよ、医者として是非|止《と》めなくっちゃならないと説諭したが、御尤《ごもっと》もだとも不尤《ふもっと》もだとも答えるのが厭《いや》だった。
そのうち日は容赦なく経《た》った。病気は依然として元のところに逗留《とうりゅう》していた。とうとう出発の前日になって、電話で中村へ断った。中村は御大事になさいと云って先へ立ってしまった。
二
小蒸気《こじょうき》を出て鉄嶺丸《てつれいまる》の舷側《げんそく》を上《のぼ》るや否や、商船会社の大河平《おおかわひら》さんが、ど
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