》いてやって来た。余のごとく東京に生れたものの眼には、この姿がすこぶる異様に感ぜられた。ちょうど白虎隊《びゃっこたい》の一人《いちにん》が、腹を切り損なって、入学試験を受けに東京に出たとしか思われなかった。教場へは無論|下駄《げた》を穿《は》いたまま上《あが》った。もっともこれは佐藤ばかりじゃない。我等もことごとく下駄のままあがった。上草履《うわぞうり》や素足《すあし》で歩くような学校じゃないのだから仕方がない。床《ゆか》に穴が開《あ》いていて、気をつけないと、縁の下へ落ちる拍子《ひょうし》に、向脛《むこうずね》を摺剥《すりむ》くだけが、普通の往来より悪いぐらいのものである。
 古い屋敷をそのまま学校に用いているので玄関からがすでに教場であった。ある雨の降る日余はこの玄関に上って時間の来るのを待っていると、黒い桐油《とうゆ》を着て饅頭笠《まんじゅうがさ》を被《かぶ》った郵便脚夫が門から這入って来た。不思議な事にこの郵便屋が鉄瓶《てつびん》を提《さ》げている。しかも全くの素足である。足袋《たび》は無論の事、草鞋《わらじ》さえ穿《は》いていない。そうして、普通なら玄関の前へ来て、郵便と大きな声を出すべきところを、無言のまますたすた敷台から教場の中へ這入《はい》って来た。この郵便屋がすなわち佐藤であったので大いに感心した。なぜ鉄瓶を提《さ》げていたものかその理由《わけ》は今日《こんにち》までついに聞く機会がない。
 その後《ご》佐藤は成立学舎の寄宿へ這入った。そこで賄《まかない》征伐をやった時、どうした機勢《はずみ》か額に創《きず》をして、しばらくの間|白布《しろぬの》で頭を巻いていたが、それが、後鉢巻《うしろはちまき》のようにいかにも勇ましく見えた。賄に擲《なぐ》られたなと調戯《からか》って苛《ひど》い目に逢《あ》ったので今にその颯爽《さっそう》たる姿を覚えている。
 佐藤はその頃頭に毛の乏《とぼし》い男であった。無論老朽した禿《はげ》ではないのだが、まあ土質《どしつ》の悪い草原のように、一面に青々とは茂らなかったのである。漢語でいうと短髪種々《たんぱつしょうしょう》とでも形容したら好いのかも知れない。風が吹けば毛の方で一本一本に靡《なび》く傾《かたむき》があった。この頭は予備門へ這入っても黒くならなかった。それで皆《みんな》して佐藤の事を寒雀《かんすずめ》寒雀と囃《はや》していた。当時余は寒雀とはどんなものか知らなかった。けれども佐藤の頭のようなものが寒雀なんだろうと思って、いっしょになってやっぱり寒雀寒雀と調戯《からか》った。この渾名《あだな》を発明した男はその後技師になって今は北海道にいる。
 話が前後するようだが、旅順に来て十何年ぶりかに佐藤に逢って、例の頭を注意して見ると、不思議な事に、その頭には万遍《まんべん》なく綿密に毛が生えていた。もっとも黒いのばかりではなかった。近頃は正当|防禦《ぼうぎょ》のために、こう短く刈っているんだと云って、三分刈の濃い頭を笑いながら掻《か》いて見せた。
 旅順から二度目の電話がかかった翌日の朝、橋本と余は、この旧友に逢うため、また日露の戦跡を観《み》るため、大連から汽車に乗った。乗る時、是公が友熊《ともくま》によろしくと云った。是公は何か用事があったと見えて、国沢君と二人で停車場《ステーション》の構内を横切って妙な方角へ向いて歩いて行った。やがて二人の影は物に遮《さえ》ぎられて、汽車の窓から見えなくなった。そうして満洲に有名な高粱《こうりょう》の色が始めて眼底に映じ出した。汽車は広い野の中に出たのである。

        二十二

 おい旅順に着いたら久しぶりに日本流の宿屋へ泊ろうかと橋本に相談を掛けるとそうだな浴衣《ゆかた》を着てごろごろするのも好いねという同意である。橋本は新しく蒙古から帰ったので、しきりに支那宿に降参した話を始めた。その支那宿には、名は塞北《さいほく》に馳《は》せ、味《あじわい》は江南を圧すなどという広告の文字がべたべた壁に貼《は》りつけてあるそうだ。橋本はこう云う文句をたくさん手帳に控えている。ほかに使い路のない文句だものだから、汽車の中で、それを残らず余に読んで聞かせてしまった。二人は笑いながら日本流の奇麗《きれい》な宿屋を想像して旅順のプラットフォームに降りた。降りるとそこに馬車がある。我々の名前を聞くものがある。
 この馬車が民政署の馬車で、我々を尋ねてくれた人が、渡辺秘書《わたなべひしょ》であるという事を発見した時は両人ともだいぶ恐縮した。橋本を振り返ると相変らず鼻の先を反《そ》らして、台湾パナマだか何だかペコペコになった帽子を被《かぶ》っている。おい宿屋はどうするんだいと小さな声で聞くと、うんそうさなと云ったが、そのうち二人とも馬車へ乗らなければならな
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