客間にして古い仏像やら鏡やら銅器陶器の類《たぐい》を奇麗《きれい》に飾っているから、客間を見ただけではただ一通りの風流人としか見えない。相生さんは満鉄の社員として埠頭事務所《ふとうじむしょ》の取締である。
 もっと卑近な言葉で云うと、荷物の揚卸《あげおろし》に使われる仲仕《なかし》の親方をやっている。かつて門司の労働者が三井に対してストライキをやったときに、相生さんが進んでその衝に当ったため、手際《てぎわ》よく解決が着いたとか云うので、満鉄から仲仕の親分として招聘《しょうへい》されたようなものである。実際相生さんは親分気質《おやぶんかたぎ》にでき上っている。満鉄から任用の話があったとき、子供が病気で危篤《きとく》であったのに、相生さんはさっさと大連へ来てしまった。来て一週間すると子供が死んだと云う便《たよ》りがあった。相生さんは内地を去る時、すでにこの悲報を手にする覚悟をしていたのだそうだ。
 相生さんは大連に来るや否や、仲仕その他すべて埠頭に関する事務を取り扱う連中を集めてここに一部落を築き上げた。相生さんの家を通り越すと、左右に並んでいる建物は皆自分の経営になったものばかりである。その中には図書館がある。倶楽部《クラブ》がある。運動場がある。演武場がある。部下の住宅は無論ある。
 倶楽部では玉を突いていた。図書館には沙翁《さおう》全集があった。ポルグレーヴの経済|字彙《じい》があった。余の著書も二三冊あった。

 ここは柔道の道場に使っていますが、時によると講談をやったり演説をやったりしますと云う相生さん自身の説明について、中を覗《のぞ》き込むと、なるほど道場にはちょうど好い建物がある。その奥に高座《こうざ》ができていて、いつでも寄席《よせ》もしくは講演を開くような設備もある。講演てどんな講演ですかと聞き返したら、相生さんは、まあ内地から来られた人だとか何とかいうのを頼んでやりますと答えられた。ことによると、遠からぬうちに捕《つか》まって、ここへ引っ張り出されはしまいかと、その時すぐ気がついたが、真逆《まさか》私《わたし》はどうぞ廃《よ》しにして下さいと、頼まれもしないうちに断るのも失礼だと思って、はあなるほどと首肯《うなず》いて通り過ぎた。
 最後にもっとも長い二階建の一棟《ひとむね》の前に出た。これが共同生活をやらしている所でと、相生さんが先へ這入《はい》る。中は勧工場《かんこうば》のように真中を往来にして、同《おなじ》く勧工場の見世《みせ》に当る所を長屋の上り口にしてある。だから長屋と長屋とは壁一重《かべひとえ》で仕切られながら、約一丁も並んでいるばかりか、三尺の往来を越すとすぐ向うの家《うち》になる。上り口を枕にして寝れば、吸付莨《すいつけたばこ》のやり取りぐらいはできるほど近い。相生さんが先へ立って、この狭い往来を通ると、裁縫《しごと》をしたり、子供を寝かしたりしている神《かみ》さん達が、みんな叮嚀《ていねい》に挨拶《あいさつ》をする。しかし中には気がつかずに何か話しているのも見える。
 この部落に住んでいる人間が総《そう》がかりになった上に、その何十倍か何百倍のクーリーを使っても、豆の出盛《でさか》りには持て余すほど荷が後から後からと出てくる。相生さんの話によると、多い時は着荷《ちゃくに》の量が一日ならし五千|噸《トン》あるそうである。これがため去年|雨期《うき》を持ち越した噸数は四万噸で、今年《こんねん》はそれが十五万噸に上《のぼ》ったとか聞いた。
 南北千五百尺東西四千二百尺の埠頭《ふとう》の側《そば》にこのくらい豆を積んだらずいぶん盛《さかん》なものだろう。

        二十一

 旅順から電話がかかってこっちへはいつ来るかという問合わせである。おい誰がかけてくれるんだろうなと橋本に聞いて見ると、橋本はそうだなあと云うだけで要領を得ない。おい名前は分らないのかとやむをえずボイに尋ね返したら、ボイは依然として、ただ民政署《みんせいしょ》だと云ってかけて参りましたと同じ事を繰返している。おおかた友熊《ともくま》だろうぐらいに橋本と二人で見当をつけて返事をさせた。これが白仁長官《しらにちょうかん》の好意から出た聞き合せであった事は旅順に着いて後《のち》始めて知った。
 旅順には佐藤友熊と云う旧友があって、警視総長と云う厳《いかめ》しい役を勤めている。これは友熊の名前が広告する通りの薩州人《さっしゅうじん》で、顔も気質も看板のごとく精悍《せいかん》にでき上がっている。始めて彼を知ったのは駿河台《するがだい》の成立学舎という汚《きた》ない学校で、その学校へは佐藤も余も予備門に這入《はい》る準備のために通学したのであるからよほど古い事になる。佐藤はその頃|筒袖《つつそで》に、脛《すね》の出る袴《はかま》を穿《は
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