てまた股野にかえるが、余は是公に叱られたため、とうとう股野の家へは移らなかった。けれども遊びには行った。なるほど小山の上に建てられた好い社宅である。もっとも一軒立《いっけんだて》ではない。長い棟《むね》がいくつも灰色に並んでいるうちの一番はずれの棟の、一番最後の番号のその二階が彼の家族の領分であった。岡の下から見ると、まるで英国の避暑地へ行ったようだとある西洋人が評したほど、外部は厚い壁で洋式にできているが、中には日本の香《におい》がする奇麗《きれい》な畳が敷いてあった。なるほど景色《けしき》が好い。大連の市街が見える、大連の海が見える、大連の向うの山が見える。股野の家にはもったいないくらいである。余はそこで村井君に逢《あ》って、股野の細君に逢って、手厚い御馳走《ごちそう》になって帰った。
十九
支那の宿屋を一つ見ましょうと云いながら、股野は路の左側にある戸を開けて中へ這入《はい》った。そこには日本人が三人ほど机を並べて事務を執《と》っていた。股野はそのうちの紺《こん》の洋服を着た人を捕《つら》まえて、話を始めた。君ここは宿屋だろうと聞いている。宿屋じゃないよと立ちながら返事をしている。何だか様子が変になって来た。やがて余はこの紺服の人に紹介された。紹介されて見ると、これは商業学校出の谷村君で、無論|旅屋《やどや》の亭主ではなかった。谷村君はこの地で支那人と組んで豆の商売を営んでいる。したがって取引上の必要があって、奥の方から大連へ出て来る豆の荷主《にぬし》と接触しなければならないのだが、こっちの習慣として、こう云う荷主はけっして普通の旅籠《はたご》を取らない。出て来ればきっと取引先へ宿《とま》って、用の済むまではいつまででもそこに滞在している。しかもその数は一人や二人ではない。したがって谷村君の奥座敷は一種の宿屋みたような組織にできている。
じゃその奥座敷をちょっと拝見できますかと云うと、谷村君はさあさあと自分から席を離れて、快よく案内に立たれる。余は谷村君の後《うしろ》へ追《つ》いて事務室の裏へ出た。股野も食付《くっつ》いて出た。裏は真四角な庭になっている。無論|樹《き》も草も花も見当らない、ただの平たい場所である。そこを突き抜けた正面の座敷が応接間であった。応接間の入口は低い板間《いたま》で、突当りの高い所に蒲団《ふとん》が敷いてある。その上に腰をかけて談判をするのだそうだが、横着な事には大きな括枕《くくりまくら》さえ備えつけてある。しかし肱《ひじ》を突くためか、頭を載《の》せるためかは聞き糺《ただ》して見なかった。彼等は談判をしながら阿片《あへん》を飲む。でなければ煙草《たばこ》を吸う。その煙管《きせる》は煙管と云うよりも一種の器械と評した方が好いくらいである。錫《すず》の胴《どう》に水を盛って雁首《がんくび》から洩《も》れる煙がこの水の中を通って吸口まで登ってくる仕掛なのだから、慣れないうちは水を吸い上げて口中へ入れる恐れがある。一服やって御覧なさいと勧められたから、やって見たが、ごぼごぼ音がしてまるで脂《やに》を呑むような心持がした。
二階が荷主の室《へや》だと云うんで、二階へ上《あが》って見ると、なるほど室がたくさん並んでいる。その中《うち》の一つでは四人《よつたり》で博奕《ばくち》を打っていた。博奕の道具はすこぶる雅《が》なものであった。厚みも大きさも将棋《しょうぎ》の飛車角《ひしゃかく》ぐらいに当る札を五六十枚ほど四人で分けて、それをいろいろに並べかえて勝負を決していた。その札は磨いた竹と薄い象牙《ぞうげ》とを背中合せに接《つ》いだもので、その象牙の方にはいろいろの模様が彫刻してあった。この模様の揃った札を何枚か並べて出すと勝になるようにも思われたが、要するに、竹と象牙がぱちぱち触れて鳴るばかりで、どこが博奕なんだか、実はいっこう解らなかった。ただこの象牙と竹を接ぎ合わした札を二三枚貰って来たかった。
一つの室では五六人寄って、そのうちの一人が笛《ふえ》を吹くのを聞いていた。幕を開けて首を出したら、ぱたりと笛を歇《や》めてしまった。また吹き始めるかと思って、しばらく室の中に立っていたが、とうとう吹かなかった。室の中には妙な書が麗々と壁に貼《は》りつけてある。いずれも下手《まず》いものだのに、何々先生のために何々書すと云ったようにもったいぶったのばかりであった。股野が何か云うと、向うの支那人も何か云う。しかし両方の云う事は両方へ通じないようである。
二十
波止場《はとば》から上《あが》って真直《まっすぐ》に行くと、大連の町へ出る。それを真直に行かずに、すぐ左へ折れて長い上屋《うわや》の影を向うへ、三四町通り越した所に相生《あいおい》さんの家がある。西洋館の二階を
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