後《うしろ》にいる余の方をふりむいて、にやにや笑いながら、また鞭を鳴らし出した。馬も存外平気なもので、そのままとうとう大和《やまと》ホテルまで帰って来た。
 橋本と余はこう云う馬車の中で、こう云う路の上に揺振《ゆすぶ》られべく旧市街から出立した。あれがステッセル将軍の家でと云うのを遠くから見ると、なかなか立派にできている。戦争の烈《はげ》しくならない時は、将軍がみごとな馬車を駆《か》ってそこいらを乗り廻しているのが遥《はるか》の先から見えたそうである。A君の指《ゆびさ》して教えられた中《うち》で、ただ一つ質素な板囲《いたがこい》の小さい家があった。それがまるで日本の内地で見る普通の木造なのだから珍らしかった。何とか云う有名な将軍の住宅だと説明されたが、不幸にしてその有名な将軍の名を忘れてしまった。何でも非常に人望のある人で、戦争のときも一番先に打死《うちじに》をしたのだそうである。ああ云う質素の家に住んでおられたのも、一つは人望のあった原因になっているのでありましょうとA君は丁寧に敬慕の意を表《ひょう》される。この将軍は戦争だけには熱心で、ほかの事にはよほど無頓着《むとんじゃく》であった人らしい。この辺にある露国の将軍などの住宅は皆それ相応に立派なものばかりである。新市街の白仁長官《しらにちょうかん》の家を訪《たず》ねた時、結構な御住居《おすまい》だが、もとは誰のいた所ですかと聞いたら、何でもある大佐の家だそうですと答えられた。こう云う家に住んで、こういう景色《けしき》を眼の下に見れば、内地を離れる賠償《ばいしょう》には充分なりますねと云ったら、白仁君も笑いながら、日本じゃとても這入《はい》れませんと云われたくらいである。
 そのうち馬車は無鉄砲に山路《やまみち》を上って、旅順の市街を遥の下にうちやるようになった。A君は坂の途中で車を留めて、私は近路を歩いて、御先へ行って御待ち申しますと云いながら、左手の急な岨路《そばみち》をずんずん登って行った。我々の車はまたのそのそ動き出した。

        二十五

 下を見下《みおろ》すと、山の側面はそれほど急でないが、樹《き》と名のつくような青いものはまるで眸《ひとみ》を遮《さえぎ》らない。一眼に麓《ふもと》まで透《す》かされるのみならず、麓からさき一里余の畠《はたけ》が真直《まっすぐ》に眉《まゆ》の下に集まって来る。この辺の空気は内地よりも遥に澄んでいるから、遠くのものが、つい鼻の先にあるように鮮《あざやか》である。そのうちで高粱《こうりょう》の色が一番多く眼を染めた。
 あの先に、小指の頭のような小さい白いものが見えるでしょう、あすこからこっちの方へ向いて対溝《たいこう》を掘出したのですとA君が遠くの方を指さしながら云った。この辺に穴を掘るのは石を割ると一般なのだから一町掘るのだって容易な事ではない。現に外濠《そとぼり》から窖道《こうどう》へ通ずる路をつけるときなどは、朝から晩まで一日働いて四十五サンチ掘ったのが一番の手柄であったそうだ。
 余は余の立っている高い山の鼻と、遠くの先にある白いものとを見較《みくら》べて、その中間に横《よこた》わる距離を胸算用《むなざんよう》で割り出して見て、軍人の根気の好いのにことごとく敬服した。全体どこまで掘って来たのですかと聞き返すと、ついそこですと洋剣《サーベル》を向けて教えてくれた。何でも九月二日から十月二十日とかまで掘っていたと云うのだから恐るべき忍耐である。その時敵も砲台の方から反対窖道《はんたいこうどう》と云うのを掘って来た。日本の兵卒が例のごとく工事をしているとどこかでかんかん石を割る音が聞えたので、敵も暗い中を一寸二寸と近寄って来た事が知れたのだと云う。爆発薬の御蔭《おかげ》で外濠《そとぼり》を潰《つぶ》したのはこの時の事でありますと、中尉はその潰れた土山の上に立って我々を顧みた。我々も無論その上に立っている。この下を掘ればいくらでも死骸《しがい》が出て来るのだと云う。
 土山の一隅《ひとすみ》が少し欠けて、下の方に暗い穴が半分見える。その天井《てんじょう》が厚さ六尺もあろうと云うセメントででき上っている。身を横にして、その穴に這い込みながら、だらだらと石の廻廊《かいろう》に降りた時に、仰向《あおむ》いて見て始めてその堅固なのに気がついた。外濠を崩《くず》した上に、この厚い壁を破壊しなければ、砲台をどうする事もできないのは攻手に取って非常な困難である。しかもこの小さな裂け目から無理に割り込んで、一寸二寸とじりじりにセメントで築上げた窖道を専領《せんりょう》するに至っては、全く人間以上の辛抱比《しんぼうくら》べに違ない。その時両軍の兵士は、この暗い中で、わずかの仕切りを界《さかい》に、ただ一尺ほどの距離を取って戦《いくさ》をした
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